幸せの味

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 小さなローテーブルで向かい合って、ささやかな食卓に着く。一口目のスプーンを口に運び、しっかり咀嚼して飲み込んだ後、千鶴がはしゃいだように問いかけた。 「美味しい!なんで?普通に作っただけなのに、樹が作るとなんか美味しい。わたし一人だとこの味にはならないんだよ」 「千鶴の歌声のおまじないのおかげじゃない?」  ふふっと笑って、樹がそう言った。 「そんなわけないでしょ。なにか隠し味に入れてる?」 「まぁね」 「なに?教えて!」 「最大の隠し味。それは『愛』です」  笑顔だった千鶴が、ムッと膨れた表情になる。 「また…そういうこと簡単に言うんだから…」  樹が言ったことに、冗談や嘘のつもりはなかった。ただの市販のカレールーで味付けただけのなんの変哲もないカレーライスが美味しく感じるのは、二人で一緒に食べるから。  一緒にご飯を食べて美味しいと感じるのは、相手への想いが強いから。  樹がスプーンを置いて、コップの水を飲み干して、軽く咳払いをした。 「ねぇ。やっぱり、ちゃんと一緒に暮らしませんか?」  樹の発言に、千鶴は動揺を隠せなかった。  いつか、そういう話になるだろうとは思っていたが、まさかこんなタイミングで言われると思っておらず、完全に油断していた。これまで、意図して避けていた部分もあるし、正直まだ覚悟ができていない。 「それは…でも、樹だって一人になりたい時とかあるでしょう。喧嘩した時とか、別々に過ごしたくなるかも」 「俺は一人になりたいと思った時はないし、俺たち喧嘩したことないよね。俺がどう、とかじゃなくて、千鶴の本当の気持ちを聞かせて欲しい」  半分同棲しているような状況だけど、千鶴は自分のアパートを解約しようと思ったことはない。 「わたしは……このままでいたい。ちゃんと一緒に暮らすって、つまりはそういうことでしょう?逃げ道は、あったほうが安心できるの」 「俺はっ…!!」  思わず出た樹の大きな声に、千鶴が怯えた顔でビクッと肩を竦めた。  いつも千鶴は心の奥底で、何かを恐がっているようなところがあることに、樹は気が付いていた。本心を何重にもぐるぐると包帯で巻き付けて隠している千鶴のそれを、責めずにそっと見守ってきたけれど、それも、もう限界だった。 「俺は、結婚したいと思ってる。千鶴とずっと一緒にいたい。ねぇ、なにから逃げなきゃいけないの?」  千鶴の瞳に、見る間に水の膜が張ってくる。  樹だって本当は、このタイミングで、こんな色気もなにもないプロポーズをするつもりなんて全くなかった。でも人生の分岐点なんていつ訪れるかわからないものなのかもしれない。そしてそのタイミングを逃すと、次が訪れるかもわからない。  開いては、閉じる口。言葉を選ぶように、躊躇を孕みながら千鶴がぽそりとつぶやく。 「今日、スーパーの帰り、手をつないだとき、ドキドキしなかったの……」 「え?」 「初めて、樹と手をつないだとき、わたし凄く幸せで、死ぬほど緊張したけど死ぬほど嬉しかった。でも、もう同じ気持ちでドキドキ出来ない。気持ちなんて、変わるんだよ。忘れるんだよ」  瞬きと同時に、千鶴の右目から頬を伝わずに涙がポトリと落ちた。 「変わって駄目なの?ドキドキなんてしなくても、一緒に居るのが当たり前みたいな幸せだってあるでしょ」  千鶴が一度ふるりと首を緩く左右に動かしたことで、左目からも涙が落ちた。 「わたしの両親…すごく、仲良しだったの。本当に、仲が良かった」 「うん。とても素敵なご両親だと思ったよ」  付き合って一年経った頃、嫌がる千鶴を押し切って、どうしても一度きちんと挨拶をしておきたいとご両親に会わせてもらった時の事を樹は思い出していた。  穏やかで仲睦まじいご両親の様子に、とてもあたたかい家庭で大事に育てられたのだと感じた。  だから、そのあと千鶴から出た言葉に、内心では驚き、激しく動揺した。 「父は、血が繋がってないの。再婚後のおとうさんなの。凄くいい父親だけど、本当のお父さんじゃない」 「え…?」  千鶴の父親は、本当に千鶴を大事にしている様子だった。樹との交際を認めつつも 「千鶴のことを傷つけたら、絶対に許さないからね」と、笑顔で言うその瞳の奥は全く笑っていなくて、これが親の愛なのかとヒヤリと汗が流れた感覚を鮮明に覚えている。 「そう…だったんだ」  予想外の事実を知らされ、どんな返事をすればいいのか分からずに、樹は曖昧な相槌を打つことしかできない。 「わたしが七歳の時、両親が離婚したの。離婚する直前まで、台所に一緒に立ってにこにこしながら楽しそうに料理してた。ご飯を食べるときも、ずっと楽しくて、わたしはなにも知らないままその日あった嬉しい事を馬鹿みたいに話してた…」  千鶴はずっと俯いているから、涙で光る震えるまつ毛とつむじしか見えない。 「なのに突然、離婚することになった、って言われた。なんで?どうして?って聞いたけど、仕方がなかったのって、それしか教えてくれなくて」  ゆっくりと顔を上げた千鶴の瞳は、不安定に揺れていた。重力に従う涙が頬を伝い、ゆっくりと顎の方に流れていく。 「変わるんだよ。人の気持ちなんて。わたしがいつまで樹を好きでいられるかなんて、わたしにもわからないの。樹だって、今はわたしを想ってくれてるけど、いつ変わるかわからないでしょう」 「俺の気持ちは絶対変わらない!」  千鶴の顔がくしゃりと歪んだ。下がった眉毛のせいで出来た眉間の皺が、樹にはまるで心の傷のように思えた。 「絶対なんて、ないんだよ。信じられないの。こんなわたしと一緒になっても、樹が幸せになれると思えない」  無理矢理こじ開けた箱の中に隠されていたのは、七歳のまま止まってしまった千鶴の心の傷だった。きっと今まで誰にも見せずに来たことで、簡単に治すこともできないほど、深く根付いてしまったのだろう。  けれど、樹は、とっくに覚悟を決めていた。 「信じないままでもいいよ」 「え?」  千鶴の表情が困惑に変わる。 「仮に、もし俺の気持ちが変わったとしても、俺からさよならをすることはないって、約束する」 「どういうこと?」 ——簡単に治る傷じゃないかもしれない。 「例え心変わりしたとしても全力で一生隠すって約束する。絶対に俺から離れることはないって、約束するから」 「なにそれ…」 ——でもどれだけ時間がかかっても、それを治す役目を他の男に譲るなんて、もう考えられない。 「それで、いつか信じてくれたらいいよ。心変わりなんてやっぱり無かったんだって。それは、どっちかが先に死ぬ時でもいい。一生かけてでも、信じてもらえるように頑張るから」 「そんなの、出来ないよ。自分を信じてない人と一緒に居たって、いつか苦しくなる。わたしとじゃきっと樹は幸せになれない…」 「そんなの、誰と居たって一緒だよ。誰と居たって幸せになれるか分からないし、信じてもらえるかわからない。だったらその相手は千鶴がいい。千鶴じゃないと嫌だよ」  戸惑い、大きく揺れていた千鶴の瞳が、少しずつ落ち着いていく。 「千鶴も、どうせ信じられない気持ちも、心変わりが怖い気持ちも変えられないなら、俺と一緒に居よう。毎日、気持ちが変わってもいい。俺が全部聞くから」 「……本当に、わたしなんかでいいの?」  千鶴が、不安を隠しきれない表情で樹の瞳を窺い見る。 「千鶴じゃないと駄目だ」  樹が胡座のままずりずりと千鶴に近づいて、きつく抱きしめた。 「どうして樹は、そんなに優しいの?」  千鶴のくぐもった声が、樹の肩口で震える。 「俺は優しくない。俺が千鶴と一緒にいたいから、全部自分のための行動だし、発言だよ」  強く抱き締められたままふるふると首を振ることで、樹のシャツにぐりぐりとおでこが擦り付けられる。 「ううん。やっぱり優しいよ、誰よりも……。本当は、わたしも、ずっと樹と一緒に居たいと思ってた」  千鶴の頬に手を当てて、そっと顔を上げさせる。涙でメイクが崩れてたって、ほんのり目が腫れぼったくなっていたって、どんな千鶴だって愛おしい。  くしゃくしゃになった前髪を整えてあげて、涙に張り付いた髪を耳にかける。  優しい弧を描く耳輪をさらりと撫でて、そっと閉じた瞼に唇を静かに乗せた。  一度開いた瞼がもう一度閉じたのを確認して、今度は唇に唇を押し付けた。  照れくさそうに千鶴がはにかんで笑う。 「ドキドキ…した」 「俺も」  ふっ、息を吐き笑ったあと、樹がくしゃりと右手で自分の前髪を握って溜息をついた。 「あーあ……。カレー食べながらプロポーズするつもりなんて無かったのに。しかも指輪だって準備してない。俺だっせぇな……」 「ふふっ、そんなことない。これからカレー食べるたび今日を思い出せるから、嬉しい」 「カレー味のキスでも?」 「うん…。カレー味の、ドキドキしたキスも…」 「……もう一度、してもいい?」  閉じる瞼で返事をする千鶴にゆっくりと影を落とす。  そっと重ねた唇はやがて深く絡まり、それがお互いの味に変わっても、離れることはなかった。
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