偽りの幸せ

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偽りの幸せ

 一学期も終わりかけのある日、小学一年生の千鶴は返却されたテストを大事に持って、出来る限りの早歩きで帰路に着いていた。  本当は全速力で駆け出したかったけれど、素直な千鶴は「道路は絶対に走らないように」という両親の言いつけをきちんと守って、前に進める足を精一杯素早く動かした。  当時、母は専業主婦で、父は大手自動車販売会社の営業をしていた。  父の勤める店舗の定休日は平日ということもあり、土日は不在で帰宅も毎日遅かったが、それを不満に思ったことはなかった。  なぜなら、父の休みに合わせて平日にテーマパークや水族館、動物園に連れて行ってもらっていて、それは千鶴にとって日頃の寂しさなんて帳消しにしてしまうほど、特別に楽しかったからだ。 「日曜日は行列で二時間も並ばなきゃいけないこともあるんだって。お父さんのお休みが平日で得しちゃったね」  母はいつもそう言って穏やかに微笑んでいたし、父もそれを聞いて相槌を打ちながら、家族三人で笑い合っていた。  両親はいつでも仲が良くて、笑顔の絶えない家庭だった。千鶴は自分の家族が『幸せ』であることを疑ったことなんて、一度たりともなかった。  そしてその日は帰宅して早々ランドセルを背負ったまま、千鶴は両親に返却されたテストを広げて見せた。 「お父さん!お母さん!見て!算数のテストで百点とったよ」  きゃべつの千切りをしていた母と、唐揚げを油の海から菜箸で取り上げていた父が、満面の笑みで振り返ったのはほぼ同時だった。 「すごいじゃないか!えらいな、千鶴は」 「頑張ったのね。お母さんは千鶴が頑張ったことがなによりも嬉しい!」  しかし、大好きな家族の笑顔が見られたことに喜びを感じたのは僅かな時間だった。両親があまりにも喜んで口々に千鶴を褒め称えるから、千鶴の小さな胸の中に罪悪感が芽生える。  それを隠すことにすら罪の意識を覚えて、堪らずもう一枚の紙を差し出した。その紙に視線が集まったのを確認して、千鶴は思わず下を向いた。 「ごめんなさい……。国語は七十点だったの」  両親が、百点を見てあまりにも嬉しそうにするから、七十点ではガッカリさせてしまうのではないかと、そのことが悲しかった。  二人の顔を見るのが怖くてうつむいていると、父の大きな手がくしゃりと千鶴の頭を撫でた。 「千鶴が謝ることなんてない。次また頑張ればいい」  母が優しく手を取り包んでくれる。 「そうよ。お母さんは満点のテストよりも、千鶴が毎日学校に行って、笑顔で帰ってきてくれることが一番嬉しいんだからね」  おそるおそる顔を上げると、そこにあったのは先程までと何も変わらない両親の笑顔だった。  立ったままの父のおなかに顔を埋めてギュッと一度抱きついたあと、今度はしゃがんでいた母の肩に甘えるようにあごを乗せて優しく抱っこしてもらった。 「ちづるね、お父さんもお母さんも、だぁーいすき!」 「お母さんだって、千鶴のことが大好きよ」 「お父さんも千鶴のこと大好きだからな」 「うんっ!」  その後はみんなで夜ご飯を食べながら、沢山おはなしをした。  今まで家族で行って楽しかった場所、嬉しかったこと、普段よりも賑やかな食卓でこれまでの家族の思い出を振り返った。  千鶴も学校で先生から褒められたことやお友だちと遊んだこと、いろいろなことをいつもよりもいっぱい話した。  まるで絵に描いたような色鮮やかで幸せな家族の光景は、当たり前にずっと続いていくと思っていた。  でも、そんな世界もたった一言で色を失くし、モノクロの景色に変わってしまった。 「お父さんとお母さんは、離婚することにしたんだ」  おなかいっぱいになって、ごちそうさまをして、幸せな気持ちのまま新しい朝を迎えることを疑いもしていなかった千鶴には、その言葉の真意が理解できなかった。 「リコン…?」  同じクラスのお友だちにも、一人いる。お父さんとお母さんがリコンしたから、お母さんと二人で暮らしているという子が。  だから、なんとなくリコンがどういうことなのかわかってはいたが、千鶴には全く関係のない話だと思っていた。 「千鶴はこれからお母さんとふたりで暮らすのよ」 「なんで……?」 「仕方がないのよ」  わからない。全然わからない。そんなんじゃ、全く納得できない。 「やだ。やだよっ…!どうして?ちづるがテストで満点取れなかったから?この前、水族館で大きいぬいぐるみが欲しいって、わがまま言ったから?」  父が今まで見たことのない苦しそうな顔で、これまで聞いたことのない低くて重い声で、諭すように言った。 「千鶴に悪いところなんてひとつもないんだよ。ごめんな。これはもう、決まったことなんだ」  もう、両親に笑顔はなかった。  千鶴は、初めて母が泣いているところを見た。  おそらく千鶴に気付かれないようにと、母が一瞬顔を背けた隙にこっそりと落とした雫を見てしまった。  それを目にした途端、千鶴が泣くのはいけないことのような気がしてきて、泣くことができなくなった。  それからは、もうなにも聞けなくなった。
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