偽りの幸せ

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 千鶴は、手櫛で髪の毛を梳かれる感覚が好きだ。  五本の指先が頭皮にふれて髪の毛を一束ゆるく掴んで、そのまま髪を攫ってするりと離れていく。髪の毛に触覚なんて無いはずなのに、確かにふれられているのがわかる。  ふわっと持ち上げられて、こぼれ落ちた髪がハラハラと自分の元に戻ってきて肌に当たる感覚が、くすぐったくて心地いい。自分で頭をさわっても、こんなに気持ちよくはならない。  まぶたの裏に感じるオレンジ色で朝を迎えたことはわかるけれど、まだ起きたくない。  夢と現実の境界線を揺蕩うような、このふわふわとした微睡の中が一番安らげる。 「千鶴?起きてるでしょ」  不確かなことを探るような、それでいて、愛おしいものに向けられるそれだとわかってしまう優しい声色で問いかけられた。  まだ眠っているふりをしようかと思ったけれど、頬を擽る髪の毛と、耳にかかる吐息がくすぐったくて、口元が緩んでしまった。  重力に抵抗しているかのような重さのまぶたをゆっくりと持ち上げると、目を眇めてふわりと微笑む樹と目が合った。 「おはよう」 「ん…。まだ、おはようって、言いたくなかったのに」  千鶴は寝起きがよくない。  絞り出すような掠れ声で子どもみたいな我儘を言って、樹の手を取り頭に導いた。もっと撫でてほしいと仕種でおねだりをする。  千鶴の要望通りに、樹から優しく髪を梳かれて再びの心地よさが訪れた。 「嫌な夢でも見てた?なんか、苦しそうな顔してたから」 「え?うん……いや、夢はみてた気がするけど、覚えてない」  半分は本当で、半分は嘘だった。なんとなくは覚えてるけど、もやがかかったようにはっきりとは思い出せない。 「身体、大丈夫?」  樹が気遣わしげに、けれどもどこか甘さを含んだ表情で千鶴を窺い見る。  視線が絡んで、数秒見つめ合った。樹の瞳の奥に垣間見えた色香で、途端に昨夜の熱を思い出して一気に顔に血が上ってくる。  初めて、一晩で三回も抱かれた。  それも極上の甘さで、どろどろに溶かされて。  樹はずっと優しかったけれど少し強引で、今まで我慢させていたのだと実感させられるほどの熱量だった。  でも、全然嫌ではなくて…。むしろ、あまりにも気持ちがよすぎたことで体力の消耗が激しく、最後は気を失うように眠ってしまった。 「だ、だいじょうぶ……」  急激に恥ずかしさが込み上げて来て、目元まで毛布を引っ張り上げて顔を隠した。 「ならよかった。これからも昨夜くらいしたいから、慣れてね」 「えっ!?」  驚いて毛布からガバッと顔を出した瞬間、ふにゅっ、と唇に柔らかな唇が押し当てられた。 「コーヒー淹れるからゆっくり休んでて」  樹はいつも優しいけれど、今日はまた一段と千鶴を甘やかしてくれる。声や表情や態度、その全てで気持ちを伝えてくれる。  ベッドサイドに腰掛けて床から服を拾い、シャツを被る樹をぼんやりと眺める。  愛されている。  自惚れではなく、そう実感できる。  なのに、スッと立ち上がり離れて行こうとする樹に無性に寂しさを感じて、とっさに樹のシャツの裾に手を伸ばした。けれど、引っ張るのには間に合わず、指先でふれた布はするりと通り抜けていった。  それに樹は気が付かなかった。千鶴をひとりベッドに残したまま、キッチンに歩いていく樹の背中を眺めていたら、勝手に涙がこぼれて慌てて拭った。 ——置いて行かないで  たった数歩で辿り着くその場所にそんな言葉がそぐわないことはわかっているから、声には出せなかった。
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