変化

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変化

 樹と千鶴の共同生活は、千鶴が拍子抜けしてしまうほどにあっという間に馴染んでいった。  もともと休みの前日は樹の家に泊まることも多かったし、出会ってからは約三年、交際を始めて二年と少しが経過してからの同棲なので、お互いのことはそれなりに理解している。  部屋の広さが足りていないと思うことはあるが、樹はあまり多くのものは持たないタイプで、いつもきれいに片付いていた。  千鶴も、ひとつの物を大事に使い続ける性格で、小物だろうが何かを買い足すときはしばらく悩むようなところがある。  だから、部屋が荷物であふれかえるというようなこともなかった。  ただ、ひとつだけ。千鶴が今気にかかることは、樹がやたらとひっついてくる、ということ。  嫌なわけではない。むしろ、本当は嬉しいくらいだ。だけど、困る。くっつかれたときにこみ上げてくる、幸福感の逃がし方がわからないから。 「あの、樹……?あつい」 「え、今日は涼しいけど」 「そうじゃなくて」  就寝前に千鶴がローテーブルに肘を置いて本を読んでいたら、後ろから樹がぴったりと抱きついてきた。  鼻先が首元に当たりヒヤッとする。思わず肩をすくめて身を捩ると、逃すまいと、お腹のところで組まれた樹の手に力が入るのがわかった。 「本、読みにくいんですけど」 「俺のことは気にしなくていいよ。勝手に千鶴を堪能してるだけだから」 「気にしなくていいとか無理だか、らっ!ちょっ…ん、だめ」  シャツの裾から樹の手が忍び込んできて、するりと臍のすぐ下を撫でられた。お風呂上りだからというだけではなく、手のひらの熱に違う意味が込められている気配を感じる。  樹の唇が、千鶴の髪をかき分けて素肌にふれる。うなじから聞こえるリップ音に指先が震えてしまって、読書どころではない。  同時に首筋にかかった樹の髪の毛が冷たくて、身体がびくりと跳ねた。 「待って!髪乾かさないと風邪ひくよ。まずはドライヤーでしょ」 「やだ、離れたくない。千鶴が乾かして」  千鶴よりも十五センチも背が高い一つ年上の大人の男性なのに、まるで子どもみたいだ。  そして、それを可愛いなと思ってしまうたびに、樹に向かう愛おしさを自覚させられる。  せめて怒っているふりくらいしたいのに、思わずふふっと笑みがこぼれてしまう。 「もう、仕方ないなぁ。樹ってさ、こんなに甘えん坊だったっけ」  先に立ち上がった樹が、軽々と千鶴の腕を引っ張り上げる。  あまりにも容易く立たされるその力強さに一瞬で、樹が紛うことなきオトコのヒトなのだと思い出す。 「俺は千鶴にだけしか甘えないよ」  耳朶にくっ付けられた唇の先端がくすぐるように動いて、溶けるような声で囁かれた。 「んっ…!」  不意打ちにきた疼くような掻痒感に、自らの意思に反して高い声が洩れてしまった。  口づけられた耳を庇うように手で隠して顔を赤くする千鶴を眺めながら、にこりと笑う樹が小憎たらしい。  恋人同士の心地よい甘い時間にまだ慣れることのできない千鶴に対して、樹はいつも余裕があるように見えてしまう。  千鶴と出会う前の経験から成せる業なのか、という疑問が頭をよぎったが、そんなことを考えても仕方がないので、意識的にその思考を奥の方に押し込んだ。  ドライヤーを軽く振りながら、座る樹の正面に立って頭に熱風を当てる。少し癖のある髪の毛の中に手を入れて、ふわふわの感触を楽しむように摘まんでは落としてを繰り返して、全体を乾かしていく。  二人掛け用なのに、二人で座るのには少し狭いソファに一人で座った樹が、まるでひなたぼっこをしている猫のように首を伸ばして目を眇めた。 「気持ちいい、千鶴に頭さわられるの。眠くなってくる」 「うん、わかる。わたしも樹から頭を撫でられるの、すごく好き」 「え?もう一回言って」  言葉がドライヤーの音にかき消されてしまったのかと、声量を上げて繰り返す。 「わたしも、樹から頭を撫でられるの、好き!」 「ごめん、最後の方もう一回」  聞こえないはずはないのにと訝しく思ったが、もう一度、と人差し指を上に向ける樹の仕種につられて、更に声を上げた。 「だから!わたしも好き!樹から、あた…っっ!」  急に左腕を引かれ、唇を唇で塞がれてドライヤーを落としそうになったが、樹はそれも予想ができていたのか、ドライヤーを持っている方の千鶴の右手をギュっと包み込んでいる。  思わずきつく結んで閉じた唇を、ぺろりと舐められた。そして、樹の唇と、重ねられていた手が同時に離れていき、そのままドライヤーを奪われスイッチを切られた。 「もっと千鶴から、好きって聞きたい」 「っ……ずるい、そういうの」  一緒に暮らし始めてから、樹の愛情表現は前にも増してわかりやすくなった。  そして、千鶴にもこうして時々言葉を求めてくるようになった。  しかし、千鶴は気持ちを言葉にするのが得意ではない。  いや、とても苦手だ。特に「愛情」を言葉にしようとすると、どうしても喉のところで引っかかってしまう。恥ずかしいから、というのも理由のひとつではあるが、胸の中につかえたもやもやが、千鶴から愛情表現の言葉を奪っていく。  千鶴も本当は言葉にして伝えたいと思っている。樹を想う気持ちは間違いなく本物で、時々無性に愛おしさが込み上げて来て、首や肩に齧り付いて痕を残してしまいたいような、そんな堪らない気持ちになることさえある。 「言って。好きだって、千鶴の口から聞きたい」  千鶴が予想していたよりも急速なスピードで、日に日に大きくなるこの想いに戸惑っているほどなのに。 「わ、たし……樹のことが」  すき。たったの二文字。  でもそれを言葉にしてしまうと、今の幸せが嘘みたいに崩れ落ちてしまう気がする。  こんなに想っているのに、好きな人に好きだとも伝えられない自分の弱さに嫌気が差す。  それでも、どうにかして伝えたくて、樹の頬に手のひらを当てた。  三十センチほどの至近距離で、樹を見下ろす形で見つめ合う。親指で頬を撫でて、そのままそっと、千鶴から唇を重ねた。先端を掠めるだけの優しいキスを数秒交わして離れようとしたら、うなじから髪の中に侵入して来た大きな手のひらに捕まり、グッと後頭部を引き寄せられた。  いつの間にか樹の膝に横抱きされるように座る体勢になっていて、重いのではないかと気にかかるのに、身動きを取れないほどの力で頭と腰を固定されてしまっている。  一瞬離れただけの唇が今度は強く押し付けられて、角度を変えて、深さを変えて、どこまでも千鶴を追いかけてくる。少し息苦しさを感じて離れようとしても、それを許してもらえない。 「は……ッッん!」  酸素を取り込もうと僅かに開いた唇の隙をつくように、あっけなく樹の舌が千鶴の中に侵入してきた。  強引なのに、探る舌先はやはりどこまでも優しくて、丁寧に口腔内を撫でていく。自分の意思に反して蠢く熱くてぬるりとしたそれが、内頬を、口蓋を舐っていくと、途端に身体の中心が疼いて溶けていく感覚に襲われる。  樹とのキスは、きもちいい。  きもちがよくて、こわくなる。  慣れてしまって、感覚が鈍くなってしまう事への恐怖か。依存してしまって、離れなければならなくなったときに、自分が壊れてしまう事への恐怖か。  もしくは、そのどちらもなのかもしれない。  不安で痺れて震える千鶴の舌を、樹の舌が絡めて吸い上げ連れだしていく。連れ出された舌が、樹の唇で、舌で、執拗なほどに愛されていく。  上 下の唇で挟まれて、余すことなく根元から先端まで舐られて、ざらりとした敏感なところ同士を擦り合わせて唾液を混ぜ、互いの境界線がなくなっていく。  千鶴は自分を見失わない様に、必死に樹のシャツの肩口をぐっと握りしめることしかできない。  唇を、口腔を愛されると、ふれられていない場所まで身体全部が切なくなって、溶けてしまいそうになる。  千鶴はそれをいつも不思議に思う。どうして、身体の中心まで熱くなってしまうのだろうかと。  生きるために食事を取り込むのは口からだ。それが身体中に行きわたり栄養になる。樹とのキスも、身体中を巡って、千鶴の生きるために必要なものになろうとしているのではないだろうか。  そうやって、少しずつ、互いの一部になっていく。だとしたら、欠けたときはどうなってしまうのか。心の栄養のほとんどを、樹から享受している自覚がある今、もし失ってしまったら、果たして千鶴は一人で立ち上がることができるのだろうか。  冷静に思考を働かせようとする一方で、無意識に擦り合わせていた太腿を不意に撫でられ、耳を塞いでしまいたくなるほどの甘ったるくて高い声が千鶴の口からこぼれた。 「あっ……んっ…」  緩い水音を響かせながら、絡んでいた舌と舌で繋がる緩い糸が視界に入り、羞恥を煽る。 「千鶴、今なに考えてたの」  樹の方こそが何を考えているのかわからないような真顔で、千鶴の視線を絡め取る。 「え……?樹のことしか、考えてないよ」  一瞬、樹の顔が切なげに歪んだ気がした。けれど、すぐにいつもの優しい目元になり、甘さを含んだ色気を纏わせて鼻先を合わせてくる。 「じゃあ、もっと俺のことを考えて」  そのまま首筋に顔を埋められて、反射的に身構えてしまった。 「あの、明日仕事だからっ」 「だめ?」  至近距離で上目遣いで見つめてくる樹の視線が、なんだか仔犬からすり寄られているようで駄目だと言えなくなる。  自分より大きなオトコのヒトなのにこんなに可愛いなんて 「ずるい……」  くすりと微笑む樹に手を引かれて、千鶴は甘く気怠い時間にのみ込まれていくだけだった。
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