狼の山

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 優希(ゆうき)はバスから降りると、視界に広がる山と空とを見上げた。  手前には川と林に挟まれ県道が伸びている。走り去るバスを見送り、次いでバス停に目をやる。時刻表を見ると、運行は一日二本のみである。  バックパックを背負いなおし、優希は山に向かって歩き始めた。  登山は優希の大学生の頃からの趣味だが、それにしてもこんな辺鄙な場所へ来た理由を、改めて思い起こした。  先月、法事のために祖父母の家を訪れた。  三年振りに会った従姉が妊娠八ヶ月目で、ビーチボールでも服の下に隠しているのではないかと思うような大きな腹をしていた。  集まった親戚は従姉を囲み、新しく生まれてくる子供の話で盛り上がっていた。子供は女か男か、そんな話をしていたら、伯母さんが笑いながら言った。 「どっちでもいいわよ。人間であってくれさえすれば」  妙な言い回しだと思っている優希の表情に気付いたように、母が付け足した。 「うちはね、狼人間の家系なのよ」  それが、なんとも奇妙な話だった。  母の曾祖母の曾祖母という人が、人間と狼の(あい)の子を産んだという。  その人は名前をおせんといい、夫も恋人もいないのにある日突然身籠り、生まれた子は犬のように口が大きく裂けた奇形児だったという話だ。  時代が時代だけに、そんな奇形の子供は殺されてしまうかと思いきや、意外にも母子は村の人々から大切にされた。  当時、村や周囲の集落では病気が流行していたが、おせんさんが妊娠してから病人が次々に回復したのだという。村では狼が山神の一種として古来から信仰されており、赤子の父親は犬神だと、おせんさんは言っていたらしい。村の人々はおせんさんの言葉を信じたということだ。  奇形の娘も無事に村の長者に嫁ぎ、次に生まれた子供に外見異常はなかった。優希の曾祖母の代に一家は村を出て地方都市に移住したが、その奇妙な物語は口伝されていたということだ。  母は曾祖母の出身地まで聞かされており、優希は次に登る山をそこにしようと決めたのだった。  おせんさんが狼の子を身籠ったと言われる山は、明治時代に道路が通されて人の往来を増したようだが、昭和後期に長距離トンネルが通ると道は廃道となり、山は立入禁止になった。  山が再び開放されるようになったのは平成後期である。冬と春の間は遭難防止と自然保護のため引き続き入山禁止だが、解禁される七月から十一月にかけてのみ、余所者も入山できる。
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