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登山口に、普段は入山禁止である旨と解禁時期を示した看板が立てられていた。
優希は林を進み、斜面を歩いた。晩秋とあって木々の半分ほどが葉を落とし、地面には落ち葉が厚く積もっている。道らしい道は全くないが、時折木の枝に目印のテープが結び付けられている。
地図を確認しながら、谷沿いに登った。頂上付近で折り返し、帰りは尾根を下った。途中で荒れ果てた旧道に行き当たり、そこを進んだ。
麓まで下ったところで、道の外れの木々の向こうに、崖と滝を見た。美しい風景に惹かれ、優希は道を逸れた。
滝のそばには巨大な杉の古木があった。フォトジェニックな景色を持ち帰ろうと思い、優希はスマホを取り出してカメラを起動し、杉の木と滝を撮った。
その時、不意に空気が変わったように感じた。
背筋が冷え、視線を感じた。振り返ると、少し離れた茂みの間に、大きな犬が立っていた。
野犬だ。
優希は凍りついた。
熊や野犬に遭遇した時は、気にしない素振りでゆっくり歩き去った方がいいと聞いたことがあった。しかしばっちり目が合ってしまった上、彼の体はなぜか動かない。
野犬が、軽い足取りで彼に歩み寄ってきた。
噛まれれば指どころか腕を噛みちぎられそうである。野犬は硬直している優希に近付くと、彼の周りを三度回った。そして二回、低く太い声で吠えると、山に向かって走り去っていった。
優希は、指先が震え、不意に体が動くのを感じた。
助かった。
彼は早足で、県道の方へ向かって歩き始めた。
バス停に戻り、一時間近く以上呆然と待つと、バスがやってきた。バスに乗って、ようやく人心地がついた。
今一度、無事だったことを幸運に思った。山は美しいが危険も多く、人間の場所ではないことを思い知る。
ふと思い出して、バックパックのポケットからスマホを取り出した。
まだ電波はほぼ圏外。写真のライブラリを開く。しかしそこに、杉の大木と滝の写真は入っていなかった。
確かに撮ったような気がしたが、気のせいだったのだろう。
『狼人間の家系なのよ』
母の言葉が脳裏に浮かんだ。
真偽を確かめようのないオカルト話だが、いずれにしても優希には関係のない話だ。本物の狼人間なら、野犬に遭遇しても優希のように芯までびびったりしないのではないか。
次はもう少し人通りのある山へ行こう、そんなことを考えながら、優希は他に乗客のいないバスのシートに深く座り直した。
<終>
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