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第1話 こんにちは魔界
「もうマジ無理! この世界マジ無理だわぁ~!」
自室のベッドの上で大の字になって喚いているのは、弓削咲良、一六歳。
これといった特徴のない顔立ちに、一六〇センチに満たず、太っても痩せてもいない体付き。ショートヘアーをミルクティーブラウンに染めている、まあ何処にでもいるような少女だ──その容姿に限っては。
「もういいや、引っ越したろ。魔界に」
言うや否や起き上がり、部屋を出た。途中で使用人とすれ違っても目もくれず、真っ直ぐ向かった先は、母家の目と鼻の先にある平屋の離れだ。
かつて咲良の祖父が使用し、今では物置も同然となっているこの建物は厳重に施錠されているが、咲良にかかればあっさりと解錠可能だ。手をかざしただけで、ドアは独りでに開いた。
「誰にも邪魔はさせないぞっと」
咲良が再びドアを施錠するのと同時に、咲良の家族──クソ父、アホ兄、カス姉──と、先程廊下ですれ違った使用人──この人はまあ普通──が、血相変えて母家から飛び出して来た。
「咲良! おい待て!」
「ぜってえ何かとんでもねえ事やらかす気だ! 止めねえと!」
「もう何なのあの子! いっつも私たちに迷惑ばっかりかけて!」
彼らが離れのドアを叩きに叩きながら怒鳴りに怒鳴り、最終的にはぶち破って雪崩れ込むまでにそう時間は掛からなかったが、その時には既に、弓削家の末っ子の姿は忽然と消えていたし、それ以降二度と姿を現す事もなかった。
風もないのに木々や草むらが勝手にざわめき、鳥か獣かわからない奇声が遠くから聞こえてくる、そこそこ広くてそこそこ薄暗い〈歌魔女の森〉の、真ん中よりやや南。
茶髪の青年が一人、森の中心部へと黙々と歩いていた。
──死ぬからあげる、なんて言われてもなあ……。
青年──レイモンド・サイホユートは、一五年前に母を、そして一〇年前に父を亡くした。他に身寄りはおらず、天涯孤独の身ではあるが、幸いにも友人・知人には恵まれている。
これから向かうのは、母の友人である老魔女の家だ。母亡き後から何かと世話を焼いてくれた彼女は昨夜、シャワーを浴びていたレイモンドの前に突然現れたかと思うと、こう言い残して消え去った。
「あたしの命もあと一時間かそこらだ。残った家と家具はあんたにやるから、使うなり売るなり好きにしな。ああ、あたしの体は心臓が止まったら跡形もなく消えるようになってるから安心しな。んじゃ!」
消え去る直前に下半身の一部をチラ見されたような気もしたが、気もしただけだとレイモンドは自分に言い聞かせている。
目的地であるレンガ造りの二階建てには何度かお邪魔した事があったので、迷わずに到着した。外観が古めかしく感じられないのは、築年数が比較的新しいのか、それとも魔法によるものなのかはわからない。
「ばあちゃん、来たよ」
ひょっとするとまだ生きている可能性もあるので、木製のドアを二回ノックしてから声を掛けてみたが、反応がない。窓から中を覗いてみようかと思ったが、カーテンが閉められている。
──やっぱり本当に死んだのか……?
だとすれば、合鍵を所持しているわけでもないレイモンドが簡単に入れるように、ドアは開いているはずだ。
「……入るよ?」
一応断りを入れてからそっと引くと、予想通り、軋んだ音を立てながら開いた。
一階にはキッチン、バスルーム、トイレ、そして一八帖から二〇帖程の広さの部屋が一つ。赤紫色のカーペットが敷かれ、テーブルと四人分の椅子以外にはチェストやキャビネット、隅には小さな暖炉と釜。少ない物品は整頓されており、全体的に清潔感がある。
──全然魔女らしくないんだよな。
フッと微笑み、一歩足を踏み入れた時だった。
──ん?
背後が急に明るくなった。振り向くと、一〇メートルかそこら離れた地面から眩い光が放たれている。
「ばあちゃん?」
老魔女が自分を驚かすために悪戯でも仕掛けたのだろうか。レイモンドはとりあえず、何かあるまで静観する事に決めた。
「今誰かおばあちゃんて言わなかった?」
──!?
光の中から声が聞こえたかと思うと、次の瞬間には少女が姿を現していた。
「わたしまだ一六なんですけどー!」
光が消滅し、少女の姿がはっきりと見えるようになった。レイモンドより二〇センチ以上は背が低い。髪は明るめで、これといった特徴のない顔立ちには、あどけなさが残っている。
──妖精……は違うな。妖魔か、吸血鬼か?
「あー、ちょっとそこのおにいさん」
「……え、あ、おれ?」レイモンドは内心身構えた。
「そう、あなたよあなた。ねえ、ここ魔界で合ってる?」
お前は何を言っているんだ、というのが率直な感想だったが、レイモンドは黙って頷いておいた。
「ああ良かった! 大成功! 転移魔法の最長距離は家からC県のデズニイランドの入場門前までだったから、正直自信なかったんだ」
「転移魔法? ああ、なるほど……?」
それなら突然現れた理由としては納得がいく。しかしレイモンドには聞き慣れない単語も出て来た。いや、そもそもこの少女、最初にここが魔界かどうかを確認していた。
──何なんだこいつは……?
そんなレイモンドの疑問に答えるかのように、少女はあっけらかんと、
「あ、わたし、人間界から転移して来たの。れっきとした人間だよ」
「……何だって!?」
「本当だよ。咲良っていうの。魔術の名門生まれで……って、それはどうでもいいや、うん。咲良って呼び捨てでOKだよ、おにいさん」
「サクラ……花の名前か」
「あー、読みは同じだけど、漢字は違うんだな。あれ、おにいさん桜知ってるの? 魔界にもある?」
「ああ……」
「そうなんだ。ところで、おにいさんのお名前は?」
「レイモンド。レイモンド・サイホユート」
少女のペースに呑まれつつあるのを自覚しつつ、レイモンドは素直に答えた。
「ん? サイコボール?」
「サイホユート」
「サイホーンマタドガス?」
「怒られるぞ」
「じゃあ、レモン君ね」
「その愛称は初めてだな……まあ構わないが」
「レモン君、知り合って早々に助けてほしいんだけど……いい?」
「どうした」
──駄目と言っても聞かないだろうよ。
「何処かにいい物件ないかな? 目立たない空き家があればベストなんだけどね、ヘヘッ」
「勝手に住み着く気か。というか、何で魔界に?」
「色々あって、人間界にはすっかり嫌気が差したの」
「人間にとっては住みにくい世界だと思うぞ、魔界は」
「人間界に戻るつもりはない」咲良は今までで一番真面目な様子で答えた。「もう二度と」
「……そうか」
理由を問いたい気持ちはあったが、とりあえずレイモンドは、目の前の少々馴れ馴れしい少女の要望に応えてやる事にした。
「だったら咲良、君はかなり運がいい」
「え?」
レイモンドは後ろの家を親指で差し、
「家賃はいらないよ」
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