キャンバス

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キャンバス

 とある公園。ここには、人や動物、植物が存在し、夢や希望、悲しみや絶望が溢れていた。何もかもが静かに漂うその公園で、人は絵を描く。  青年は、この公園で毎日のようにキャンバスと睨めっこをした。描きたいものが分からずに、青年はずっと筆を動かせなかった。 「まだ描けないのかい」  声をかけたのは、青年の先生だった。優しい絵を描く先生が、青年は大好きだった。 「何を描けばいいのか、分からなくなってしまいました。描きたいと思えなくなってしまって。僕は、画家には向いていないのでしょうか」  先生は青年の隣に腰掛け、青年と同じようにキャンバスを立てた。先生のパレットには、青年が見た事もない色が沢山並べられていた。 「私もね、今の君と同じように考えていたんだよ。何を描けばいいのか分からない。何日も筆を持てなかった。そんな時、空のパレットを持つ人に出会った。綺麗な女の人だった。キャンバスには、その女性のように綺麗な絵が描かれていたんだ」  先生は思い出を話し始めた。キャンバスに絵具をのせるように、ゆっくり、優しく。  若い頃の先生は、パレットの絵の具達を上手く掛け合わせる事が苦手だった。キャンバスに色を塗る事が、億劫だった。何を塗っても、頭で思い描く通りに描けないのだ。彼が描いたキャンバスには、目的を失った絵の具達が不格好に這いずり回っていた。目の前の風景を描く事も、自らの内面を描く事も出来なかった。  公園にいる人間は皆、筆を持ってひたすらに目の前のキャンバスを彩り続け、それぞれの世界を創った。筆を置いているのは、先生だけ。  ⋯いや、もう一人いた。先生の隣に少し距離を置いて、腰掛けている女性。彼女は、彼女が描いたであろうキャンバスの絵をずっと見つめていた。筆を持つ気配はなかった。女性のキャンバスには、抽象画が描かれていた。その絵を、女性はずっと見つめていた。 「あの」  先生は女性に声をかけた。この公園では様々な人間を見てきたが、何も描かない人間を見たのは初めてだった。先生も筆を置いていたが、それは絵を描けない、描きたくないという「理由」があるからである。しかし、隣にいる女性は最初から描く事を放棄しているように見えた。 「描かないのですか。そのような美しい絵を描けるのなら、いくらでも描き続けられそうなのに」  キャンバスに描ける絵は無限大だ。人は皆その手に絵の具を持っている。それが尽きるまでは、何度でもキャンバスを塗り替えられる。描いて、描いて。何度も繰り返し描いては、その上からまた塗り替える。そうやって何度も挑戦し、失敗し、学んでいく。そうして人は描き続けるのだ。キャンバスに描かれるものが希望だろうが絶望だろうが、光だろうが闇だろうが関係なく、人は描き続ける。絵の具が尽きるまでは。  女性は先生の方を見て、何も言わずに微笑んだ。女性のパレットには、絵の具が無かった。女性はまたキャンバスを見つめた。そしてキャンバスに指先をそっと触れ、静かに涙を流した。涙は、色を失ったパレットに落ちた。  その瞬間、女性はその場所から姿を消した。抽象画が描かれていたキャンバスは、真っ白になった。 「いつか、描けなくなる日は必ず来る。どれだけ素晴らしい絵を描けたとしても、その日は皆、平等にやってくる。だから、今君のパレットに絵具があるのなら、描きなさい。下手でもいい、間違っていてもいい。キャンバスを塗り替える事は、いくらでもできるのだからね」  先生は話している間もずっと、キャンバスに筆を走らせていた。先生はそのキャンバスに、過去も今も未来も、全てを描こうとしていた。  青年は筆をとり、絵具をかき混ぜた。何も考えず、そのデタラメな色を殴り描いた。それは青年が描きたい絵ではなかったけれど、不思議と心が軽くなるのを感じた。  キャンバスに現れたのは青年の、ありのままの今だった。
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