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女の顔が強張る瞬間を、謙人は笑いを噛み殺しながら見つめていた。
睫毛が長く、猫のように軽くつりあがった目元。謙人の好みはどちらかといえば垂れ目の女性であったが、その女が驚愕に目を見開き、自分の差し出したスマートフォンの画面を凝視しているさまは、満足感を抱くに足るものだった。
女の名前は詩帆という。兄の拓真から紹介された際には苗字も聞いた気がするが、謙人の記憶にはない。詩帆の見ている画面には、拓真が見知らぬ女性と並んで歩いている様子が表示されている。
「兄貴ってああいう感じだから、真面目で誠実そう、って思われるみたいなんだけどさ」
画面を詩帆に向けたまま、もう片方の手でグラスを持ち上げる。オレンジがかった照明が琥珀色の液体に跳ね返り、仄暗いカウンターテーブルに光を投げた。
詩帆は声を発しない。呼吸も忘れたように黙って画面に視線を注いでいる。店内に流れる控えめなジャズもその耳にはもはや入っていないだろう。ウイスキーを一口舐めてから、代わりに謙人が言葉を続けた。
「二人の出会いってさ、詩帆ちゃんが働いてる店に兄貴が通って、連絡先を渡してきた、って言ってたよね。兄貴、ガチガチに緊張してたんじゃない? その後も、俺モテないからとか、女性経験少ないとか言ってなかった? それ全部、いつもの手口らしいんだよね」
滔々と語る謙人を、そこでようやく詩帆は目線を上げ、ちらりと見た。それを逃さず謙人は思いきり憐れみの表情をつくる。
「詩帆ちゃんさ、めちゃくちゃ可愛いし、モテるでしょ? そういう子って、いかにも奥手っぽい垢抜けない男が、勇気を出して声かけてみましたって感じに弱いんだって。……あ、俺の体験談じゃないよ。兄貴がそう言ってたみたい」
わざとおどけたふうに付け足すのも忘れない。再び画面に向けられた詩帆の瞳は揺れていた。「この写真の子も、同じような手口で声かけたんじゃないかな」と駄目押しのように囁く。
カウンターの上に、詩帆の華奢な白い手が置かれている。左手で右手の指をすべてくるむようにして握っており、細かく震えているのが見てとれた。謙人の記憶によれば、右の薬指には拓真とのペアリングが填められていたはずだ。
「ごめんね」と、ここで謙人は一度、声色をがらりと変える。
「突然呼び出して、こんな話。詩帆ちゃんにはショックだったよね」
「……いえ」
詩帆は俯いて言った。数分前にはもっと澄んだ声を発していたはずの喉だが、低く掠れた声になっている。彼女から見えない位置で謙人は目を細める。
「俺も言うの嫌だったんだけどさ。なんていうか、身内の恥だし。でも……詩帆ちゃんの人生が、兄貴のせいでめちゃくちゃになるかもって思うと、やっぱり黙っていられなくて」
詩帆がいっそう俯き、ぐずっと湿った音が聞こえてくる。少しのあいだ、無言で洟をすする彼女の様子を、謙人は黙ってうかがっていた。カウンターの向こうではバーテンダーが素知らぬ顔でグラスを磨いている。
やがて詩帆はわずかに顔を上げた。掠れた声が「さっきの写真のひとって」と言うので、ホスピタリティにあふれたサービスマンよろしく、一度ひっこめていたスマートフォンを彼女の目の前に差し出す。
詩帆は小造りに整った顔を嫌そうに歪め、画面から目を逸らしながら謙人に問いかけた。
「どこの誰ですか? 謙人さん、知ってるんですか」
はっきりと答える代わりに、謙人は肩を竦めてみせる。
「彼女も被害者だよ。悪いのは兄貴だ。彼女も、詩帆ちゃんも、兄貴に騙されてる」
再び詩帆が俯いてしまうと、謙人は画面に写った冴えない兄の姿を改めて一瞥した。それからスマートフォンをポケットにしまいこむ。
謙人の見ている先で、ウェーブがかった栗色のボブヘアを、詩帆自身の手がぐしゃっと掻き混ぜた。やり場のない感情に悶えるかのような仕草。謙人はウイスキーで唇を湿らせた。
バーテンダーを目線で呼び、カクテルを一杯注文する。ほどなく提供されたそれを詩帆の手元へ差し出す。
「とりあえずこれ、飲んでよ」
詩帆がおずおずと顔を上げる。覗きこむように顔を近づけ、謙人は微笑を浮かべた。
「素面じゃ愚痴れないでしょ? 兄貴の裏切りのお詫びじゃないけど、俺、奢るからさ」
しっかりと視線を絡め、甘やかな口調で告げる。潤んで真っ赤になった両目を伏せ、詩帆は無言でグラスに手を伸ばした。
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