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かつて、平井辰巳の東京の愛人をスクープした”週刊春文”編集部に、市原菜々美から
電話が入ったのは、およそ一週間前だ。
「子どもを取り返したいんです……」
時折り声を詰まらせる菜々美に、一方ならぬものを感じた編集者は、詳しく話を聞かせて欲しいと、編集部に招いたのだ。
「今、平井家にいる赤ちゃんは私の子です。私と平井辰巳の間に出来た子で、私が今年の七月一日に産みました」
編集者が動揺しながら訊く。
「市原さんが産んだ子が、なぜ平井家に?」
「平井万結に奪われたんです……順を追ってお話します……」
一年前の秋。市原菜々美は平井辰巳の子を身籠った。つわりが酷く、何度もトイレに駆け込む姿を平井万結に見られ、問い詰められた。はじめは否定していたが、元看護師の万結の目は誤魔化せないと観念し、菜々美は、妊娠していることを素直に認めた。すると万結は、こういった。
「あなたに損害賠償を請求します」
うろたえた菜々美は必死に謝罪した。すると万結は、
「だったら、あなたの子をわたしにくれたら、無かったことにしてもいいわよ」
「え……?」
「あなたがこっそり産んで、わたしの子供として出生届を出すの」
「そ、そんなこと出来るんですか」
「可能よ。医者の協力が必要だけど、わたしには伝手があるから」
万結は総合病院に勤めていたとき、副院長と不倫関係にあった。院内に噂が広がりはじめ、副院長の妻も疑い出した。さすがに不味いと思った副院長は、万結に別れを切り出した。
「わかりました。だったらあなたを婦女暴行で訴えます」
副院長は焦った。初めて万結と関係を持ったのは、半ば無理やりだった。その後はずるずると男女の関係が続いていた。もし裁判にでもなれば、今の地位を追われるのは目に見えていた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、それは困る」
「でしたら告訴もせずに、病院も辞めてあげます。その代わり示談金を請求します」
その後万結は、副院長から一千万円の示談金を受け取り、病院を辞めた。万結はもう一度副院長を脅して出生証明書を偽造させる腹だったが、もちろん市原菜々美は、万結の魂胆など知らなかった。
万結にとって菜々美の妊娠は棚ぼただった。壮行会の夜、酩酊して帰宅した辰巳は、乱暴に万結にのしかかった。酒臭い息を吐き、「菜々美、菜々美……」と、家政婦の名前を口にしながら万結の躰をまさぐった。万結は必死に抵抗したが、寝巻きを剥ぎ取られ組み敷かれた。四十代とはいえ元ラガーマンの力には叶わないと観念した。ところが辰巳は、行為の最中に寝てしまった。こんな屈辱、許せない。復讐の機会を探っていた矢先に、菜々美の妊娠に勘づいた。辰巳は決して覚えてないだろう。これを最大限に利用してやる。そう決心した。
菜々美は平井辰巳に愛情があったわけではなく、うっかり出来た子どもだった。
結局、万結の企てに乗り、父の看病との噓の理由で家政婦を辞め、T市から引っ越した。その後は万結が借りたアパートで生活していた。家賃や生活費などは、全て万結が払っていた。
万結は義母の節子に妊娠したと嘘をついた後、お腹にタオルを巻いて妊婦を装った。半年が過ぎたあたりからは、両肩からベルトでつるすタイプの、妊婦疑似体験用のシリコンを装着し、節子や辰巳を欺いた。看護学校で使ったことがあり、通販でも買える物だ。
その後は、実家で出産すると嘘をいって節子を騙し、九月に入ってから菜々美が産んだ子を抱いて、何食わぬ顔で平井家に戻った。
市原菜々美の告白を一通り聞いた編集者は、ふと疑問に思った。
「でも市原さん……なぜ告発しようと?」
「……はじめは、望んだ子じゃなかったので万結さんの提案に乗ったんですけど、十か月以上自分のお腹で育てているうちに、愛おしくなって……こんな大人の都合で母親と離れることになったって、あの子が大きくなって知ったらと思うと……」
「わかりました。お子さんを取り戻しましょう」
編集部はその後、総出で裏取りや調査をはじめた。昨年、自由党の圧力で有耶無耶にされたネタの他に、平井辰巳が元私設秘書に中絶を強要したネタも持っていた。菜々美の告白と合わせて、特大スクープとして特集を組んだ。
秋の臨時国会開催日の十月六日、週間春文のスクープが全国の店頭に並んだ。
その日、万結と節子はつゆとも知らず、朝からベビーカーを押して、中心街に買い物に繰り出していた。
街に入るとなぜか人々が遠巻きにこちらを見ながら、ひそひそと話をしている。
「まぁ、うちの孫がよっぽど可愛いのね」
ご満悦にベビーカーを覗き込む義母に、「きっとお義母さんに似たんですよ」と、万結はお愛想を言い、ふと空を見上げた。雲ひとつない澄んだ秋空が、今までの苦労を労ってくれているように思えた。
そのとき、万結のスマホが激しく振動した。発信者は夫の辰巳だった。
ー 終 ー
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