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⑬零れ落ちた欠片の先に(side*修一)
どうしてこんなことになったのか。
ふたつ並んだグラスの中、氷がカラン、と涼やかな音を立てる。大学の中にあるカフェテリア。大きな窓から注ぐ日差しが店内を明るくする。
「あの、少しお時間ありますか?」
と突然声をかけられたのが数分前。その直前に朔也が彼女を引き止めていたことが思い出される。
午後の授業はなく、ゼミに寄る用事も済ませたところだった。周りの友人たちに「あります、あります」「どうぞ、どうぞ」と勝手に返事をされた。
――シュウちゃ。
途切れた声。何かを伝えようと向けられた視線。朔也は何を言いかけたのだろう。
――好きなひとはいるから。
不意に蘇ったのは、雨の日の言葉。目の前の彼女が朔也の「好きなひと」なのかもしれない。引き止めていたのも、協力できないと断っていたのも本当は彼女を俺に近づけたくなかったからで……協力が嘘であればいいと願いながら、朔也の好きなひとが彼女だったらと傷つく自分がいる。どこまでも自分勝手な想像と想いに苦しくなった。朔也のことを一番に考えてきたハズなのに、と。
「突然すみません」
高く柔らかな声に意識を戻される。
アイスティーの入ったグラスから伸びるストロー。細い指、白い肌、朔也が掴んでいた手首へと視線が引き寄せられる。もやもやとした心地悪さが胸に広がっていく。
「佐藤美里って言います。昨日はご来店ありがとうございました」
にこりと笑顔を向けられ、ようやく彼女が朔也の「アルバイト先の先輩」だと気づく。昨日案内してくれた店員だと。同時に自分は朔也の「幼馴染」として接するべきだろうと思い至る。朔也に関わる人に悪い印象を与えたくはない。一瞬でこちらも笑顔を作り上げた。そうして、ふとあのときはまだアルバイトを始めていなかったと思い出す。彼女とは出会っていないはずだ。少なくともあの時点での「好きなひと」は彼女ではない。そこまで考えてホッとしている自分に気づく。
「いえ。朔也がいつもお世話になってます。幼馴染の長谷修一です」
手前に置かれたアイスコーヒーへと手を伸ばしながら答えれば、
「んー、もしかしたらって思ったんですけど」
とじっと見上げられる。くるりと上がった睫毛。丸く大きな瞳は薄茶色。ぱっちりとした二重瞼に塗られたパールが薄く輝く。小さな鼻に、厚みのある唇。柔らかな甘い香りは人工的でも嫌な感じはしない。
「やっぱダメっぽいですね」
ため息とともに落とされ、一体なんのことかと首を傾げる。
「話してみたら変わるかなって思ったんですけど。修一さん、ちっとも私に興味ないですもんね」
はあ、とため息再び。アイスティーが白い管を通って彼女の口に吸い込まれる。
「え、いや、あの」
どう返すべきか迷い、意味のない言葉が落ちていく。彼女のことを美人だとは思うが、それ以上でもそれ以下でもない。朔也の先輩だから接しているだけ。けれど、それをそのまま伝えるのは失礼だろう。
「昔からそうなんですよ。自分から好きになった人には振り向いてもらえなくて」
小さく自嘲する顔からは作られた表情が消えていた。
「まあ、今はまだ好きになりそうってくらいですけど」
ちらりと視線を向けられ、そっと息を吐く。
「……わかるかも」
自然と緩んだ心の隙間、隠し続けた想いが欠片となって落ちた。
「俺も好きになった人には振り向いてもらえないから」
「えー、意外過ぎる」
くだけた返しと表情に自然と笑みが零れる。
「そっくりそのまま返すけど」
ふふふ、と否定することなく笑った彼女が静かに表情を変えた。
「……好きになってくれた人を好きになれたら、よかったんですけどね」
ぽつりと小さく落とされたのは、彼女が押し込めてきた想いだろう。人を好きになる痛みを知っている表情に自分まで胸が痛くなる。
「でも」
勢いよく上げられた顔はもう痛みを感じさせない。押し込めるだけでなく、乗り越えたのだと伝わってくる。
「無理かもしれないって思っても、自分で動かないと後悔が残るじゃないですか」
だから動いてみました、と再び見上げられる。昨日働いていた姿より、今日最初に話しかけてきた笑顔より、今の方が良いなと思う。くだけたしゃべり方もさらりと自分のことを話すところも好印象だ。でも、好きになれるかは別なのだ。
――もう、間違えるわけにはいかない。
「もしかしたら」と都合よく解釈した結果、相手を傷つけたことを忘れてはならない。
――修一が本当に好きなのは私じゃないよね。
質問ではなかった。確定事項として言われた。すぐに否定することさえできなかった。
――別れよっか。
泣き出すのを堪えて笑っているとわかったのに、何も言えなかった。
「少しでも揺らいでくれたら、もうちょっと頑張るところなんですけど」
カラカラ、とストローで氷を揺らした彼女が小さく息を吐く。
「ダメですね。修一さん、ちっとも隙がなくて。そんなに好きなんですか」
「えっ」
口の中でアイスコーヒーの苦みが跳ねる。驚き離したストローの中を黒い液体が戻っていく。
「彼女はいないって聞いてますけど。好きなひとはいますよね」
じっと見つめられ、言葉が止まる。飲み込んだ冷たさが体の芯を通る。心臓が揺れ、押し込めていた想いが再び零れ落ちる。
「……そうだね」
いないよ、と言葉にすることはどうしてもできなかった。
「やっぱり。叶うといいですね」
「いや、それは」
「諦めていないなら、頑張るしかないじゃないですか」
諦めていない、のだろうか。想いを押し込めてきたのはいつか消えることを願ってのはずで。朔也を避けたのは幼馴染でいるためで。覚えていないフリをしたのは朔也の幸せを思うからで。
エアコンの風がふわりと向きを変える。冷たい温度が肌を撫で、思い出されたのは吊り下げられ揺れていた星型の短冊。七夕の願いごと。諦めることを願えなかった自分。
迷っている時点で、答えはもう出ていた。
朔也のため。朔也の幸せのため。いつだって俺の基準は朔也だった。朔也が誰を想っていても、俺のことをどう思っていようとそれだけは変わらない。
――じゃあ、基準を超えた先にある俺の願いごとは?
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