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⑮思い出と雨と願いごと(side*修一)
――俺の願いごとは、あの日から変わっていない。
一面のひまわり畑。同じ方向を向いた花が地面を覆う。見下ろしていたときは綺麗だと思えたけれど、近づくと思っていた以上に高く、少し怖いくらいだった。
並ぶ茎が壁を作る。自分の顔よりも大きな花は遠くを見つめる。重なる葉の影が濃さを増す。
「ゴールにいるからね」
母親たちに言われ、自分よりも小さな手を握った。麦わら帽子のつばが二の腕にあたる。三歳下の朔也は今年小学生になったばかりだ。
「行こうか」
「うん」
見上げる顔にはすでに汗が浮かんでいる。午前中とはいえ、気温はじりじりと上がっていた。持っていた水筒で水分補給を済ませてから足を踏み出す。ひまわりでできた迷路。ゴールにいると言った母親たちの姿はここからでは見えない。降り注ぐ日差しがじりじりと肌を焼き、潤ったばかりの体から水分が抜けていく。落ちてくる影を踏みながら進んでいけば、すぐに分かれ道になった。
「どっち?」
朔也が無邪気に問いかけてくる。答えは知らない。自分も初めてなのだ。
「こっちかな」
それでも迷わず手を引く。道を選ぶのは自分の役目だと思うから。朔也をゴールまで連れていかなくては。どれが正しいのかなんて行ってみないことにはわからないけど。とにかく進むしかない。
道が続くこともあれば、行き止まりもある。正しい方を選べたときは「シュウちゃんはすごいね」と言い、間違った方を行ったときは「じゃあ、もう一本の方だね」と明るく笑う。手をぎゅっと握って弾むように隣を歩く。どんな道でも朔也は躊躇うことなくついてきた。
だから俺は安心して進めたのだろう。間違えてもいい。どちらに行っても朔也は一緒にいてくれる。手を引いていたのは自分だったけど、支えてくれていたのは朔也の方だった。
そろそろゴールが見えてもいいと思うのに、視界は変わらず緑色に覆われている。三回目の水分補給をしたところで、頬を撫でる風が冷たくなったことに気づく。思わず空を見上げれば、ギラギラと光っていた太陽は雲に隠れ、周囲の景色には薄い灰色が重ねられていた。濃い土の匂い。雨が降る、と思うと同時、ポツリと鼻の先に雫があたった。
ポツポツと地面に落とされる黒いシミ。
「シュウちゃん」
朔也の声が初めて不安に揺れる。傾けられた麦わら帽子の奥、じっと見上げる瞳は変わらず俺を映し続ける。
「大丈夫」
ぎゅっと握ることしか、笑顔を作ることしかできない。自分の中にある不安を朔也に悟られないよう必死だった。自分だけが朔也を守れるのだと、守らなくてはならないと、そう思って……。
「シュウちゃん!」
聞こえた声に目を開ける。ダイニングテーブルで寝ていたのだと理解するより早く、
「洗濯物!」
と朔也が叫んだ。
「え、あ」
振り返れば干しっぱなしになっている洗濯物と、その奥で色を変えた空が見える。夜の青さを隠した雲が雨を落としていた。
窓を開け、リュックを背負ったままの朔也がベランダへと飛び出す。受け取りながら状態を確認すれば、濡れてはいなかった。
「ごめんな」
「ううん。降り始めたところだから」
朔也の前髪から雫が落ちる。降り始めた、と言うことは帰ってくる途中で降ってきたのだろう。受け取った中にあったタオルを引き出し、頭に載せる。
「これは俺が畳んでおくから、朔也はお風呂行ってきな」
ソファに集めた洗濯物を振り返った、その瞬間。
「シュウちゃん」
名前を呼ばれ、腕を掴まれる。小さく響いた声。けれど腕から伝わる力は小さくはなくて。そっと顔を戻せば、まっすぐ見つめられる。薄い唇がゆっくりと動く。
「シュ、ウちゃんはご飯食べた?」
わずかに飲み込まれた言葉。声になることなく戻されたのは何だったのか。向けられた笑顔にそれを確かめることはできない。
「いや……、まだだけど」
答えながら視線を動かせば、壁の時計が目に入る。――午後八時。飲み会に行っていたにしては、帰ってくるのが早い気がする。何かあったのか、と口を開くより先、
「じゃあ、ちょっとだけ待ってて。急いで出るから」
にっと朔也が笑い、手が離れていく。
「急がなくていいよ」
待っててやるから、と笑い返せば、朔也が先ほどよりも柔らかく表情を緩めた。
窓の向こうで落ち続ける雫。わずかに開けた隙間から涼やかな風と雨の匂いが流れ込む。
――じゃあ、ちょっとだけ待ってて。
どうして朔也がこんなに早く帰ってきたのかも、ご飯を食べていないのかもわからないけど。なくなったはずの約束は消えることなく戻ってきた。
視線を廊下とリビングを仕切る扉へと向ける。テレビから聞こえる声に重なる水音。廊下から薄く響くのは朔也がいるという証。ただそこにいてくれるだけで嬉しさが体を満たす。胸の奥がじわりと温かくなる。
Tシャツを畳みながら、目を覚ます直前の記憶を引っ張り出す。ひまわり畑にあった迷路。繋いだ手。降り出した雨。濡れる麦わら帽子。ゴールへと急ぎながら、膨らんでいく不安。守らなくては、と握り締めていた手から伝わってきた強い力。
――シュウちゃん。
耳の奥で蘇る幼い声。
――俺も一緒だから。大丈夫だよ。
俺を見上げた朔也からはいつの間にか、不安の色が消えていた。
結局、ゴールの方から母親たちが迎えに来て、迷路は終わった。
「どっちが年上かわからないな」
吐き出した息とともに零れ落ちた言葉。
畳み終わったものをしまおうと立ち上がれば、テーブルに置いたスマートフォンがパッと明るくなる。通知の吹き出しの下、黄色い花を背に笑う二人。
前を向いていられたのは、強くあろうと頑張れたのは朔也がいたから。朔也を守りたいと思いながら、守られていたのは自分の方だった。
洗濯物をしまい、キッチンへと向かう。部屋の中はカレーの匂いで満たされている。明日は食べるかもしれないから、と用意していた。
あの頃に戻れたら、なんて思ったこともあったけれど。
火を点け、鍋の中をかき混ぜる。
苦しくなることも戸惑うこともなく、純粋な気持ちでそばにいられた自分。
朔也の手を離さないことだけを思っていた自分。
「……戻っても同じだな」
――手を離したくない。
その想いは今も昔も変わらない。この手を握り返された瞬間から、きっともう「幼馴染」以上に特別になっていた。
「今さら、諦めるなんてできないよな」
この結論は正しいのか。朔也を苦しめることになるのではないか。問いかける声は止まない。それでも気づいてしまった想いを抑えておくことはできそうになかった。
この願いごとは変わらないのだから。
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