⑰初恋は雨上がりに輝く(side*修一)

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⑰初恋は雨上がりに輝く(side*修一)

 ソファに座る朔也に背を向け、床に座る。  カチッと耳元で鳴る音。  ぶわりと温められた空気が吹いてくる。 「シュウちゃん、熱くない?」 「平気」  優しく水気を飛ばしていく指が地肌に触れる。  年上だから。幼馴染だから。そういう自分を縛ってきたものを取り払わないと素直な言葉は出てこない気がして、ドライヤーを預けた。  温まった体に心地よい床の冷たさ。流れてくる風に朔也の呼吸は掻き消される。同時に自分の心音も伝わることはないだろう。  風が耳を塞ぐ間に深呼吸を繰り返す。騒ぎ出す心臓を落ち着けようと。この距離を失うかもしれない恐怖を押し込める。 「あのさ」  緩んだ風の隙間に落とされた声。  朔也の指が半分乾いた髪の先を摘まむ。 「シュウちゃんに長いのが似合うって言ったのって」  ――沙耶さん?  小さな声だった。肌とは違う。髪の先では温度も感触もない。それなのにどうしてだか「不安」は伝わってくる。じわりと胸が温かくなる。滲みだした熱が「期待」を形作る。そんなことを気にしていたのか、と。 「違うよ」  美容室に行く暇もなく忙しくしていたのは去年のことだ。同じゼミの友人に「そのまま伸ばしても意外と似合うと思うぞ」と言われ、じゃあ、と切らずにいた。友人の意図としては「少しくらいモテなくなればいい」という意味でわざと言ったらしい。沙耶とのことを誰よりも応援してくれていたヤツだから、だろう。 「……そっか」  話を聞いた朔也の声が先ほどとは違う響きを持つ。明らかに安堵を含んだそれに、胸をくすぐられる。昨夜の熱を反芻しそうになり、 「終わった?」  とわざと声を大きくする。 「あとちょっと」  地肌に触れている指が先ほどよりも急いているように感じるのは気のせいだろうか。  カチッと再び鳴った音を合図に風が消える。  ふわりと熱を纏った自分の髪。緩やかに落ちてくるのを感じながら息を吸い込む。 「さく」 「シュウちゃん」  わずかに早く名前を呼ばれ、声が引っ込む。  振り返ろうとしたところで 「ごめん。そのまま聞いて欲しい」  と止められる。わずかに強張った声に、ドクドクと心臓の音が大きくなる。ドライヤーをそばに置くのがソファの軋みと重なる。 「俺ね、寂しかったんだ」  そっと吐き出された息。風が止んだことで膨らむのは朔也自身の香り。 「シュウちゃんが実家を出て、今まで普通に会えていたのが、突然会えなくなって。普通だと思っていたことが普通じゃなかったってわかって。もっと会いに行っておけばよかったって後悔した」  顔なんて見なくてもわかる。寂しかった、と朔也は言ったけれど。それ以上に傷ついていたのだと。落とされた言葉が一番柔い場所へと突き刺さる。朔也への気持ちを消したくて、一方的に避けた。会わないようにしてきた。それが朔也のためになるのだと信じて。 「……ごめんな」  忙しくて、と続くはずの言葉はうまく出てこない。素直に伝えたいと決意したからには嘘はもうつけない。 「ううん。寂しかったけど、三年間離れていたからわかったんだ」  そっと両肩にかかる重み。載せられた手が熱を伝えてくる。 「……シュウちゃんが好き」  微かに震えた声。音よりも呼吸に近い。振り返りたかったが、肩にかかる力がわずかに強くなり思いとどまる。 「会わない間に消えるような気持ちじゃないってわかったから。だから離れていた時間も無駄じゃなかったって思う。シュウちゃんに会いたくて受験勉強も頑張れたし」  朔也がわざと語尾を弾ませる。無駄じゃない。間違っていない。シュウちゃんは何も悪くない。伝わってくる想いに胸が苦しくなる。  俺が意識的に避けていたことに朔也は気づいていたのかもしれない。  ――俺の基準はいつでも朔也のはずで。  朔也を傷つけないよう、朔也の邪魔にならないよう、朔也の幸せを願ってきた。だからこそ自分の想いは伝えてはならないと思ってきた。朔也が何を思っているのかも知らず、確かめることもせず、一方的に決めつけて……逃げたんだ。  寂しい思いをさせたかったわけじゃない。無理に笑って欲しかったわけじゃない。俺はただ――。  肩に載せられている手に自分の手を重ねる。ピクリと震えが伝わってきたが、構うことなく握る。 「……協力、はもういいの?」 「え?」  なんのことかわからない、という不思議そうな声。それだけでもう十分に答えは出ていたけれど、敢えて言葉を重ねる。 「友達に協力頼まれてるんじゃなかったっけ」 「え、あ、あれは、美里さんにシュウちゃんのこと紹介したくなくて、それで……って、え、なんで」  驚きと戸惑いが触れている手からも伝わってきて、胸が温かくなる。踏み出す怖さ。変わることへの不安。間違えていたら、と怯える心は消えない。それでもこの熱は確かに存在する。朔也の想いを信じたい。 「小学生のときにさ、ひまわり畑行ったの覚えてる?」  ゆっくりと振り返る。下から見上げれば朔也の顔から戸惑いが消え、赤くなっていくのがはっきりとわかる。 「俺がしっかりしなきゃって、ずっと思ってたのにさ」  不安で揺れていた心臓が、今は別の理由で震えている。 「雨が降り出してからは、朔也の方が頼もしくて」 「そ、そうだったっけ?」  戸惑うように揺れる声が耳の奥をくすぐる。 「俺はシュウちゃんに手をずっと引いてもらってたし、シュウちゃんの背中を追いかけるのに必死だったよ」  指先から上がる体温は、もうどちらのものかわからない。 「あのとき、思ったんだ」  わずかに傾けられた顔。結んだままの視線。あの日とは違う。ただ無邪気に手を繋いでいた頃とは違う。見た目も、想いも変わってしまった。  ――それでも変わらなかったものもある。 「手を離さないで欲しいって」  ぎゅっと強く握り締めれば、朔也が震えていることに気づく。小さく噛み締められた唇。俺の顔を映したまま揺れる水面。泣かせたいわけではなかったのに。 「俺も朔也が好きだよ」 「シュウちゃ……」  名前を呼び終わる前に離された手。回された腕にぎゅっと肩を抱き締められる。一瞬で縮まった距離。触れている面積が大きくなり、熱も香りも濃さを増す。肩に落とされた顔から呼吸が直に伝わってくる。自分よりも太く逞しくなった腕にそっと触れる。 「……ごめんな」  何が正しいのか本当はまだわからない。  伝えてよかったのか、このまま朔也の気持ちを受け入れていいのか迷う心は消えない。「今だけではないか」と問う声が響き続ける。  それでも溢れた想いを戻すことはできなくて。 「どうして謝るの?」  言葉よりも音よりも先、息に混じる熱が落とされる。首に直接触れ、広がっていく。 「どうしてって……」  ――好きになってごめん。  ――想いを隠し続けられなくてごめん。  ――何より……。 「俺と一緒にいるってことは、彼女できないよ」 「シュウちゃんが恋人になってくれるのに彼女なんていらないよ」 「周りに何か言われるかもしれないし」 「言われてもいいよ。そのぶんシュウちゃんが『好き』って言ってくれれば」  ――朔也を不幸にするのではないか。  それが一番不安で怖くてたまらなかった。自分が傷つくだけなら耐えられる。でも自分のせいで朔也が傷つくのは許せない。許したくなかった。 「たとえ家族に何か言われても、それでも俺はシュウちゃんといたい。シュウちゃんと一緒にいられるならそれでいい」  それでいい。その声はもう震えていない。強く重く響き、落ちてくる。体の中心、溢れ出てしまった想いの中へと。いつだってそうだった。迷いや不安を掻き消してくれるのは、支えてくれるのは朔也の方だった。 「シュウちゃんは? シュウちゃんは本当に俺でいいの?」  問いかけながらも腕に込められた力が、もう離すつもりがないこと伝えてくる。 「……」  首にかかる髪がくすぐったくて。背中から伝わる心音が自分のものより大きくて。苦しかった胸の内側が優しい温かさで満たされていく。  ずっとずっと奥にしまい続けた願いごと。  手を離さないで欲しかったのは、ずっと一緒にいたかったから。  ――『朔也の願いが叶いますように』  朔也のことを思って書いたはずなのに。自分の願いを吊るしたようなものだったらしい。 「朔也」  腕を緩めた朔也が顔を上げる。視線、とも呼べないほどの距離で繋がる。息が唇にかかる。吸い寄せられそうになるのを寸前で堪える。  朔也の気持ちを確かめることも、自分の気持ちを伝えることもしなかった昨日のことが思い出される。今度はちゃんと向き合って、確かめ合ってからがいい。 「俺も朔也といたい。朔也じゃないと」  ダメなんだ、と続くはずの言葉は声にならなかった。押し潰すような力ではなく、そっと触れるだけ。それで十分だった。重なり合う呼吸が、混ざり合う熱が、引き合うのを止めることはできないのだと伝えてくる。ただぶつけるのではない。互いが互いを受け入れているのだとわかる優しいキスだった。 「シュウちゃん、あの」  離された唇の隙間に落とされた声。視界を埋める朔也の顔が先ほどよりも赤くなっていることに気づく。 「できれば、こっち向きに座って欲しい、んだけど」  恥ずかしそうに揺らぐ視線に、言葉の意味が一瞬で伝わってくる。確かに、少し首が痛いかもしれない。 「いいよ」  ふっと頬を緩ませれば、朔也がわずかに眉を寄せる。シュウちゃんだって、と言葉にしない声が聞こえた気がした。  ゆっくりと立ち上がれば、 「シュウちゃん?」  と不思議そうな声が追いかけてくる。そのまま向きを変えるだけだと思っていたのだろう。先ほどとは違う角度で向けられた視線。ゆっくりと繋ぎ直しながら、ふと雨の音がしないことに気づく。 「え、あの」  視界の端を掠めたのは窓に映る自分たちの姿。ソファに座る朔也を見下ろす自分。朔也の体を挟むように両手を背もたれへと伸ばせば、朔也の顔がガラスから消える。 「こっちの方がいいだろ?」 「シュウちゃ」  呼ばれた名前が、載せた片膝によって軋んだ音に重なる。ん、と続く音を口で掬い取る。伝わってきた戸惑いは一瞬で消える。背中へと回された腕の体温がじわりと染み込んでいく。  温かかった。幼い頃からそばにあった熱と香りはどこまでも優しく俺たちを溶け合わせる。満たされていく安心感。これでよかったのだと、そう思ったらツンと鼻の奥が痛くなった。両手をソファから放し、朔也の顔を抱え込むようにして触れ合う。 「シュウちゃん……」  混ざり合う息が互いの熱を上げていく。もう少し、と求める気持ちが膨らんでいく。唇を重ねるだけでは足りなくて、自然と口が開く。 「さく、や」  息継ぎの微かな間。静かな部屋の中で響いた着信音。思わずローテーブルへと視線を向ければ、スマートフォンが並んで震えていた。同時に、ということはどちらかの家族がメッセージを送ってきたのだろう。 「「あ」」  重なった声が、一瞬の間を置いて弾みだす。胸の中をくすぐる声は重なり合って夜に溶けていく。  明るくなった画面は一枚の絵のように同じ色で輝いていた。
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