②初恋の続き(side*朔也)

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②初恋の続き(side*朔也)

 一年だけ、と決めていた。  大学進学を機に実家を出ることになった。  引っ越し先は三歳上の幼馴染のところ。姉弟で暮らしていたが、姉が出ていくことになり部屋が空いたらしい。仲の良い母親同士がちょうどいい、と勝手に俺の入居を決めた。  今日から住むことになった部屋の前。黒色のドアの前で深呼吸を繰り返す。マンションの外廊下は静かで、春の柔らかな香りが冷たい空気に混ざっていた。  ――シュウちゃんに会える。  ドクドクと落ち着かない心臓をジャケットの上から押さえる。とてもとても緊張していた。幼馴染といっても会うのは三年ぶりだ。大学生になったシュウちゃんはほとんど実家に帰ってこなかったから。  震える指先をインターフォンへと伸ばす。室内に響く音。「はーい」と答える声。  会わなくなれば消えるのだと思っていた。  忘れられるのだと思っていた。それなのに。  ドアを開けて出迎えてくれた、その瞬間。 「お、久しぶり」  背ぇ伸びたじゃん、と笑われて。ふにゃりと目尻の下がった顔を見たら、もうダメだった。  捨てるはずだった初恋はあっさりと熱を取り戻した。  薄くぼやけた色に重ねたスニーカー。前を歩くシュウちゃんの影をわざと踏む。進むたび逃げていくそれを捕まえる。手にしている荷物の重さとは反対に心はふわふわと浮かんでいた。視線を上げれば、黒い髪が無造作にひとつに結ばれている。長さが足りないからか耳の後ろに残された髪は風に遊ばれていた。  ――シュウちゃんがいる。  ずっと見上げてきた、見上げることしかできなかったシュウちゃんが。  きゅっと強めた力に持っていた荷物がガサリと音を立てる。前を歩くシュウちゃんが足を止め、振り返った。 「こんなもん?」  声は変わらない。けれど視線は同じ高さで繋がる。手を伸ばせは触れられるくらいに距離は近い。  荷物の片付けを終え、買い物に出たところだった。家電はひととおり揃っていたが、初めての一人暮らしに、初めての一人部屋。揃えたいものは次々と浮かぶ。とはいえ予算は決められているのでホームセンターと百均で揃えられるものは揃えた。あとはアルバイトを始めてから……と思ったのだが。 「あ、カーテン忘れた」 「マジか」  ホームセンターに戻るにはだいぶ距離がある。どうする、と顔を見合わせたとき。ふっと冷たい風が頬を撫でた。視界が暗いな、と気づいたときには地面に黒い染みができる。 「あ」  雨、と口にするより早く降り出した。それも唐突に激しく。ポツポツではなく、ザーでもなく、ザバーッと。一瞬でびしょ濡れ。あまりにも突然で何が起こったのかわからないくらいだった。 「とりあえず雨宿りするぞ」  持っていた荷物ごと手を握られ、引っ張られる。あ、とか。う、とか。声にならない音だけが口から漏れたけどすべては雨が掻き消す。アスファルトの地面は一瞬で黒く染まり、水たまりさえできていた。バシャバシャと跳ねる水。繋いだままの手。冷たいのか熱いのかよくわからない。雨の音が激しくて耳が塞がる。塞がるからこそ内側の心音が大きくなる。  咄嗟に駆け込んだのはシャッターの下りた空き店舗の軒下。 「これやばいな」  ふっと自然に離された手。雨に濡れていたそれが一瞬で冷えていく。 「タオル買ったよな」  シュウちゃんがリュックからタオルを取り出す。真新しく吸水性の足りない、けれど柔らかな。 「ほい。とりあえず拭いとけ」 「……うん」  シュウちゃんの前髪から雫が落ちる。白い肌を流れていく。ただ、それだけのこと。それだけのことから目が離せなくなる。 「どした?」  もう一枚のタオルを使っていたシュウちゃんが振り向く。全然拭けてないじゃん、って笑う。気づけば目の前はタオルの水色で埋まり、頭をぐしゃぐしゃと拭かれる。 「え、ちょっと」  まるで犬扱い。それでも近くなった距離に、タオル越しに感じる大きな手に、濃くなった香りに心臓は跳ね上がる。 「なんだっけ。こんなこと昔もあったよな。水遊びしたときだっけ」  懐かしさを含んだ声。優しくて、温かくて、大好きだった。でも。  思い出にされたいわけじゃない。  俺は思い出になんてできない。  きっとシュウちゃんは大学卒業と同時に出ていくだろう。彼の姉がそうであったように。一年しかこの奇跡のような時間はない。だったら、俺は……。 「あのさ、シュウちゃ」 「カーテンは明日にするか。さすがにこれじゃあお店入れないし」 「あ、う、うん」  口にしかけた言葉を飲み込む。危ない。うっかり言ってしまいそうだった。これでは一年どころか即同居を解消されてしまうだろう。  伝えたい想いと離れたくない気持ち。変わりたいと願いながら、変わることに臆病になる。 「ま、ゆっくり揃えていけばいいよ」 「……そうだね」  ゆっくり。言葉が跳ね続けた心臓を包み込む。焦る気持ちもあるけれど。大事にしたいとも思う。できれば振り向いて欲しいから。失恋の思い出にしたいわけではないから。 「お、止んできたな」  灰色の雲から光が降りてくる。曇っているのに不思議と明るく、残った雨粒がきらきらと輝きだす。 「……虹見えそう」  ポツリと零れた言葉に、シュウちゃんが笑った。 「じゃあ、探しながら帰るか」  濡れた地面に影は映らない。けれど、水たまりには薄く映る。色を取り戻した景色とともに。パシャン、と端に触れたスニーカーが音を立てた。  半歩前を歩くシュウちゃんが振り返る。 「これからよろしくな」  肩にかけたままのタオル。濡れたままの髪。柔らかな光が輪郭を縁取る。シュウちゃんのいる景色を忘れたくない。 「うん。一年だけだけど。よろしくね」  決意と寂しさを押し込めて笑えば、シュウちゃんの顔が不思議そうに傾けられた。 「ん? 一年? なんで?」 「え、だってシュウちゃん来年には社会人でしょ。そしたら今のところ出て行くかなって」 「いや、院行くつもりだからまだ出て行かないけど」 「そうなの⁉︎」 「え、母さんたちから聞いてない?」 「……ない」  小さくなった声に「一人暮らしの予定が狂った?」と笑われる。予定は確かに狂った。狂ったのだけど。 「まあ、諦めろ。母さんたち家賃抑えられてラッキーってなってるから」  うん、と頷きながら俺は心の中に設けていた期限の延長を決意する。一年じゃなくてもいいんだ、と。 「お、虹発見」  シュウちゃんとの生活は始まったばかりだ。  俺の再燃した初恋の続きも――。
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