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④冷たい甘さ(side*朔也)
雨に濡れて帰り、シュウちゃんに「先入れ」と無理やり押し込められたのが少し前。シュウちゃんも同じくらい濡れているのに。シュウちゃんは絶対に譲らない。身長が追いついてもシュウちゃんの中の俺は「年下の幼馴染」でしかないのだ。とにかく早く出るしかない、と急いでシャワーから戻ったところだった。
タオルを肩にかけたままたどり着いたリビング。ソファに座ったシュウちゃんが振り返る。
「お、出た?」
ほかほかと温まった体。足裏から伝わる床の冷たさ。繋がった視線に一瞬にして心臓が跳ね上がる。だって……こんなの知らない。
「シュウちゃん、メガネなの?」
「大学入ってから視力落ちたんだよな」
「そう、なんだ」
高校生までのシュウちゃんとは違う。
よく笑うところも華奢な体つきも変わらないけど。耳の下まで伸びた髪もメガネをかけるのも今日初めて知った。
会わなかった時間の寂しさよりも新しく知ることができた嬉しさの方が大きくなる。今のシュウちゃんは家の中だからこその姿なのだと思うとそれだけで胸がぎゅうっとなる。
「じゃ、俺もシャワーするわ」
「あ、うん」
ずっと見つめてしまっていたことに気づき、急いで視線を外す。
ソファから立ち上がったシュウちゃんは俺の頭にポンと手を置き
「ドライヤー持ってくるな」
と笑った。見慣れた、昔から変わらない笑顔にふわりと胸が温かくなった。
カチッと耳元で小さな音。髪を乾かし、ドライヤーのスイッチを切ると点けっぱなしになっていたテレビの音が部屋に流れる。
シュウちゃん何観てたのかな、と意識を画面へ向けたときだった。廊下の奥からシャワーの音が薄く響いたのは。
ドライヤーを使っていたので何も聞こえなかった。髪を乾かすことしか考えていなかった。ふたつが消えると途端に水音へと意識を持っていかれる。
シュウちゃんがいる。
シュウちゃんとこれからここで暮らす。
三年ぶりの再会に緊張しすぎてちゃんとわかっていなかった。一緒に住むということは、こんなにも近くにいられるということなのだと。
シュウちゃんは今……と思わず想像しかけて急いで頭を振る。意識したらダメだ。シュウちゃんの顔が見られなくなる。
――アイスあるから、食べていいよ。
シュウちゃんがドライヤーを渡してくれたときの言葉を思い出す。
そうだ、アイス! アイス食べよう!
シャワーとドライヤーを使った以上に高まってしまった熱を鎮めようと立ち上がる。
キッチンの中に置かれたシルバーグレーの冷蔵庫は大きく、俺の身長より高い。一人暮らしではなく姉弟で暮らしていたからだろう。
冷凍室をあける。ふわりと冷たい空気が肌に触れる。熱を持った体に心地よい。
「アイスってこれかな」
カップが二個と箱がひとつ。
箱にはシュウちゃんの好きなチョコレートのアイス。カップは二個ともストロベリーだった。苺のイラストのカップを手に取る。
「シュウちゃん、苺嫌いじゃなかったっけ……?」
もう嫌いではなくなったのだろうか。髪型。メガネ。これも会えなかった間の変化のひとつなのだろうか。シュウちゃんの苺嫌いはそんな簡単に直るものではないと思うのだが。
それともシュウちゃんの姉のヒナちゃんが置いていったのだろうか。ヒナちゃんもしばらく会えていないけど、細かくてきっちりした性格だから置いていくとはあまり思えないけど。
くるりとカップを回せば、新発売の文字が印字されていた。つい三日前に発売したばかりのものだと気づき、ヒナちゃんが置いていったものではないと確信する。
――じゃあ、これはほかの人のもの……?
ツンと響いた冷たい痛み。どうして今までそこを考えてこなかったのだろう。会えることに、一緒に暮らせることに頭がいっぱいだった。一年の期限もなくなり、これから振り向いてもらえるように頑張ろうと思った。でも。
――シュウちゃんに彼女がいたら?
「朔也?」
呼ばれた声に振り返れば、リビングの入り口にシュウちゃんが立っていた。濡れた髪をタオルで拭きながら歩いてくる。
「アイスあっただろ?」
シュウちゃんが箱からチョコアイスを手に取る。近くなった距離に動けなくなる。
ふわりと温かな空気と爽やかな香りが触れる。今の自分と同じものだと気づき、鼓動がおかしなくらい速くなる。あんなにも遠かったシュウちゃんが。今はこんなにも近くにいて。俺と同じ香りを纏っている。嬉しいのか苦しいのかわからない。意識せずにはいられなくて、体が熱を帯びていく。
どした? と傾けられた顔。白い肌に薄く浮かぶ赤。濡れた髪からポタリ、と雫が落ちる。シュウちゃんを作るひとつひとつに意識を持っていかれる。俺の全部がシュウちゃんに向かっていく。諦めたくない。諦められない。俺はシュウちゃんのそばにいたい。
会わなかった期間は想いを消すどころか強めてしまっていた。
もし、シュウちゃんに彼女がいたとしても。俺は――。
「朔也?」
シュウちゃんが冷凍室を閉め、カップを手にしたまま固まる俺の顔を覗き込む。
「シュウちゃん、俺……」
「朔也、苺好きだもんな」
「え」
シュウちゃんが引き出しから小さなスプーンをひとつだけ取り出した。
「それ、ふたつとも朔也のだから。好きに食べな」
「え、あ、俺のなの?」
「そうだよ」
ほい、と小さな銀色の先を向けられる。
あまりにも自然な言葉と仕草に嬉しさが膨らむ。
「食べようぜ」
「……うん」
シュウちゃんとソファに並んで座る。大きめに設計されているので、体が触れることはないけれど、どちらかが動くだけで振動は伝わる。それだけのことに心臓が揺れる。
スプーンをカップの縁に合わせて回せば、アイスは程よく溶けていた。柔らかく盛り上がったところをそのまま掬い取る。
口に入れると冷たい甘さと微かな酸味が広がった。
「シュウちゃん、ありがとう」
「どういたしまして」
コクン、と塊を飲み込んでから口を開く。
シュウちゃんがチョコを齧るのを見つめたまま。
「あのさ」
「ん?」
「シュウちゃんって、彼女いるの……?」
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