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⑤冷たい痛み(side*修一)
――シュウちゃんって、彼女いるの……?
口の中で広がっていた甘さが消える。チョコレートの香りも消える。向けられた視線はまっすぐだった。
アイスを頬張って笑う朔也を想像していた俺はすぐに言葉を返せない。
「付き合ってる人、いるのかなって」
言い換えられた言葉がゆっくり落ちてくる。もしもここで「いる」と答えたなら、どうなるのだろう。嘘でも彼女がいると言ってしまえば、俺自身に鎖を繋ぐことができるのではないだろうか。朔也を傷つけないために、そうするべきではないだろうか。
「あ、シュウちゃん。アイス、落ちちゃう」
視線を手元に向ければ、齧り取った部分のバニラはチョコレートの表面を今にも滑り落ちそうだった。
「あ、わ、やべ」
溶けた部分ごと大きく口の中に入れる。柔らかな感触と冷たい甘さが一気に広がる。舌で吸い取るように飲み込めば、不意に朔也が顔を背けた。「俺も食べなきゃ」とスプーンでピンク色のアイスを掬い取る。視界の端で膨らんだ頬がフレームに重なる。耳が赤いのはシャワーを浴びたからだろうか。ドライヤーの熱が残っているからだろうか。
落ちてきた塊は冷たすぎて、体の中の熱を強く自覚させた。
「……いないよ」
朔也に嘘をつきたくなかったのか。
自分を縛ることができなかったのか。
零れたのは優しくも甘くもないただの事実だった。
「そっか」
再び繋がった視線は揺れていた。不安。安堵。緊張。嬉しさ。浮かぶ感情はどれだろうか。複雑すぎてわからない。
「シュウちゃん、モテそうなのに意外」
そう言って笑った朔也の声は、弾んではいなかった。朔也は俺に彼女がいたら嬉しいのだろうか。喜ぶのだろうか。俺は朔也に彼女がいても笑えるだろうか。きゅっと縮んだ心臓をさらに強く押さえつける。今だからこそ聞かないといけない気がして。
「そういう朔也はどうなの? 彼女いるんじゃないの?」
揺れそうになる声を隠すようにアイスを齧る。歯に滲みる痛さよりも胸の奥の方が強く疼く。けれど痛みはいずれ消える。忘れていく。それなら早く触れてしまった方がいい。
朔也が「いる」と答えたなら、きっと終わりにできる。燻り続けた想いをなかったことにできる。
「いないよ」
いるわけないじゃん、と笑った朔也は俺のよく知る表情をしていた。手放したいと願いながら、聞こえた答えに安堵する。押さえつけていた力が緩む。痛みを覚悟していたのに嬉しさに包まれていく。朔也を傷つけたくないと、朔也の幸せを願っているはずなのに……俺は……。
ギシッと体に響いた振動。顔を上げれば「ごちそうさま」と空になったカップを片手に朔也が立ち上がったところだった。
「シュウちゃんも捨てる?」
差し出された手のひらに「ああ」とチョコレート色が薄く残る棒と袋を載せる。
「ありがと」
かすかに触れた肌が離れる寸前、きゅっと指を掴まれる。
「朔也?」
名前を呼ぶと朔也は「ごめん」と笑い、手を離した。どこか寂しそうに。見たことのない表情を浮かべて。
「ゴミの分別聞いてなかったなって」
「あ、ああ、そっか」
キッチンへと一緒に向かう間も。並んだゴミ箱を前に教えているときも。隣に立つ朔也を少しだけ遠くに感じた。
目の前を流れるのは夕方のニュース番組。今日の天気の急変について話している。ソファの上ではなく、ソファを背にする形で床に座る。慣れないのは、いつもとは違う視線の高さと、体の両脇にある朔也の足のせいだ。触れないよう自然と体に力が入る。
「自分でやるのに」
「買い物付き合ってもらったし。これくらいさせてよ」
後ろからかけられた声の近さに肩が揺れる。ぶわりと温かな風が後ろから吹く。太い指は意外なほど優しく地肌に触れてきた。心地よい風の温度に反して毛先から落ちる雫は冷たい。
「冷たくなってるじゃん」
朔也の声がドライヤーの音に遮られる。少しだけ荒っぽく指が動き、水分が飛んでいく。
「せっかくなら一緒に食べたいなって思っちゃったから」
風の勢いを越えるよう声を大きくする。
「アイスなんてあとでもよかったのに」
俺が朔也の顔を見ることができないように、朔也からも俺の顔を見ることができない。けれど朔也の声は俺に向かっていて、指はせわしなく動かされている。俺は自分から触れないように体を縮めることしかできない。じわりと上がる熱をドライヤーの風のせいにして。
「……シュウちゃん、髪伸びたよね」
「ああ、切りそびれただけだったんだけど、意外と似合うって言われてそのままにしちゃったんだよな」
「それって」
急に小さくなった声は風の音に飲み込まれた。言葉を拾いきれず「ん? なんて?」と聞き返せば耳元でカチッとスイッチの切れる音が鳴った。ふわりと揺れる空気。消えた熱。離れていく指。地肌に残る感触に微かな寂しさが混じる。
「終わった?」
顔を振り返らせると同時、髪の先が朔也の膝を撫でる。びくりと揺れた足が背中にあたった。
「ごめん。くすぐったかったよな」
背中から伝わったのは小さな衝撃にすぎなかったのに。心臓はおかしなくらい跳ね上がる。近すぎる距離を今さらながらに実感した。
朔也はドライヤーを手にしたまま動かない。顔は俯けられ、表情は見えない。返ってこない言葉に空気が変わる予感がして、思わず立ち上がる。距離を取らないといけない気がした。
「ありがとな」
縮んでいた体を伸ばし、視線を朔也ではなくソファの後ろへと向ける。壁の時計は六時を示していた。そろそろ夕飯を準備しなくては。
「夕飯リクエストある?」
朔也に問いかけつつ、体をキッチンへと向ける。頭の中を冷蔵庫の食材で埋める。
「ないなら適当に作るけど」
一歩、踏み出した瞬間だった。
腕を掴まれたのだと認識すると同時、
「シュウちゃん」
朔也が名前を呼んだ。
振り返ると、立ち上がった朔也はじっと俺を見つめていた。
「俺――」
開いた口は、音を紡ぐ前に再び閉じられる。
飲み込まれた言葉を聞き返すより早く
「俺も手伝うよ」
と朔也が笑った。
笑顔の下に隠されたのは何だったのか。気にならなかったわけではないが、朔也が言わないと決めたならそのままにしておくべきだろう。
「じゃあ、二人で作るか」
「うん」
自然と離された手に足を止めれば、朔也が先に踏み出した。一瞬にして抜かされ、そっと息が漏れる。
「シュウちゃん」
朔也は振り返ることなく、キッチンへと足を進めながら言った。
「ん?」
「俺、彼女はいないけど。好きなひとはいるから」
冷たい水を飲み込んだように。体の奥がぎゅっと縮んだ気がした。
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