⑧弾むこころと罪悪感(side*朔也)

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⑧弾むこころと罪悪感(side*朔也)

 シュウちゃんが来る。さっき会ったばかりだけど。アルバイト先へと駆けこんだ勢いのまま心臓は跳ね続ける。 「おはようございます」  どんな時間帯でも入るときはこの挨拶。初めは慣れなくて、声が小さくなったけど、三ヶ月も経てば自然と出せる。何より今日はこのあとシュウちゃんが来るのだから。しっかり働いている姿を見てもらわないと。  ここ三ヶ月はすれ違いばかりだった。シュウちゃんに避けられているのでは、と不安になるくらい。でも、ちゃんと話したらシュウちゃんは応えてくれた。週に一度でも大きな前進だ。一緒に暮らしているのに変な感じだけど。  明日はシュウちゃんと一緒に夕飯を食べられる。それだけでも嬉しいのに。俺のアルバイト先にまで来てくれるなんて。眼鏡のついでだったとしても、俺のことを思い出してくれたのが嬉しすぎる。 「高梨くん、いいことでもあった?」  ありがとうございました、と笑顔でお客さんを見送ったところで声をかけられた。一つ上の美里(みさと)さんは、俺が入ったときから親切に教えてくれる先輩だ。名字で呼び合うのが通常なのだが、美里さんの名字は「佐藤」で、店にはほかに二人「佐藤さん」がいるので名前で呼んでいる。 「いえ、べつに何も」  油断するとすぐに緩みそうになるので、頬を内側から噛む。 「いや、あるでしょ。いつものぎこちない笑顔はどうしたのよ」  いつもはぎこちなかったのか、とちょっとショックを受ける。ちゃんとやっているつもりだったのだが。 「今日は自然に溢れてる感じだよ。まあ、いいことだけど」  探るような視線。くるりと上がった睫毛に縁取られた目がまっすぐ俺を見上げる。ぱっちりとした二重に小さな鼻。薄く塗られたピンク色の唇。後ろでまとめられた髪は緩く巻かれている。美人で親切で気さくで……シュウちゃんがいなかったら気になってたかもなぁ、なんて思う。  ほかのアルバイト仲間には憧れているやつが何人かいる。美里さんは新人の俺にほぼ付きっきりだったから、羨ましがられることもあった。三ヶ月経った今は指示がなくても次の動きがわかるようになり、美里さんは俺の教育係ではなくなった。それでもシフトが被ると気にしてフォローに入ってくれる。ありがたい先輩だ。ちなみに大学も一緒。 「いいことならいいじゃないですか」  いつもの――美里さんいわく――ぎこちない笑顔を作り、空いたテーブルを片付けにいく。美里さんもそれ以上は突っ込もうとせず、ほかのテーブルにオーダーを取りに行った。  シュウちゃん、もうすぐ来るかな。  そっと店内を見渡す。  平日の夜はそれほど混まない。一番のピークは土日のお昼だ。シュウちゃんならどこの席に座るかな。今なら窓際のあそこか、ソファ席のあそこかな。向かいに座る自分の姿まで想像しそうになって、急いで頭を振る。シュウちゃんの前で失敗だけはしたくない。気を引き締めなくては。 「いらっしゃいませ」  美里さんの声に「いらっしゃいませ」と声を重ね、入口へと視線を向ける。シュウちゃんだ。今すぐにでも駆けていきたいが、片付けの途中なので向かえない。  美里さんが「こちらのお席へどうぞ」とシュウちゃんを窓際の席へと案内する。俺はトレーにお皿やグラスを載せ、運びながらその様子を視界の端で捉える。俺がやりたかったのに。オーダーは必ず俺が取りに行こうとこっそり心に誓う。  美里さんが席から離れ、シュウちゃんの姿がはっきりと見えた、その瞬間。  目が合った。軽く片手を振られる。振り返したい。振り返したいけど両手は塞がっている。どうすれば、と考えた俺は咄嗟に首を振った。これではべつの意味になるとか、おかしな動きになっているとかそういうのは全部吹っ飛んでいた。  一瞬、驚いたように動きを止めたシュウちゃんがふっと表情を緩めて笑った。シュウちゃんには俺の気持ちが伝わったのだろう。そんな些細なことで嬉しくなって、胸が痛くなる。なんでだろう。シュウちゃんのそばにいると泣きたくなるような気持ちになるのは。 「ふ、ふは、さっきの何?」  誓い通りオーダーを取りに行けば、やっぱり笑われた。 「両手塞がってたから、振り返せなくて」 「だからって、首振る?」  シュウちゃんのくすぐったそうな笑い声。ふわふわと弾む音が耳に心地いい。自分のことを笑われていても許せてしまう。シュウちゃんの笑い声を聞いたのはいつぶりだろうか。これだけのことに嬉しくなって、やっぱり好きだなって思う。どうしたって俺の心はシュウちゃんに揺さぶられ続ける。 「……ご注文は?」  少しだけ不機嫌さを混ぜて聞けば 「アイスコーヒーだけでいいかな」  と笑いを引っ込めてシュウちゃんが答える。 「ご飯はいいの?」  時刻は六時半すぎ。この時間に来る人はご飯を頼むことが多い。喫茶店とはいえ、オムライスやドリアもある。 「うん。そんなに長居できないし」  ずっといてくれてもいいのに。どうせ混むこともないのだから。そうは思うが、シュウちゃんにはシュウちゃんの予定があるのだろう。本音を押し込み、 「かしこまりました」  と笑って返した。  シュウちゃんにアイスコーヒーを届け、並んでいたレジへと入る。今日はいつも以上にスムーズに動けている気がする。お客さんを送り出したところで再び美里さんに話しかけられた。 「高梨くん、あのお客さんと知り合い?」  美里さんの視線がシュウちゃんの方へと向けられる。 「幼馴染です。俺より三つ上なんですけど。今、一緒に暮らしてて」  シュウちゃんのことを聞かれると自然と声が弾んでしまう。美里さんにまた何か言われるかな、と身構えたが 「ふーん、そっか」  美里さんはそれだけ呟くと、すぐに離れていった。  閉店作業を終え、ロッカールームを出たところに美里さんがいた。施設内の店舗はみんな同じところを使うので、同じ時間に上がった美里さんがいてもおかしくはない。おかしくはないのだけど、明らかに誰かを待っている様子だった。 「お」  お疲れ様です、と声だけかけて去ろうとしたが 「高梨くん」  とわずかに早く呼び掛けられる。待っていたのって俺なの? なんか今日やらかしたっけ? シュウちゃんが見てたから張り切っちゃったけど。落としそうになったグラスも間一髪でキャッチしたし。テーブルを間違えそうになったときもギリギリのところで気づけたし。こうして待ち構えられてまで注意されることは浮かばないのだけど。 「駅まで一緒に帰ろうよ」  ふわりと甘い香りが鼻に触れる。至近距離でしか気づけないくらい淡い香り。 「え、あ、はい」  駅に向かうのは変わらないし、お世話になっている先輩と一緒に歩くのは普通だろう。美里さんを狙っている仲間は今日いないし。あとでとやかく言われることもない。断る理由が見つからなかったのでそのまま頷いた。  俺を待っていたように見えた美里さんだけど、今日の注意をするわけではなく、話題は来週のテストのことや、テスト期間はシフトが大変なんだよ、と言った他愛のないことばかりだった。  一人で帰りたくなかったとか? 駅までの道を思い浮かべてみるが、暗くて危ない感じはない。それでもやっぱり誰かといた方が安心するのかな。気温が高くなると変な人増えるって聞くし。 「七夕かあ」  美里さんが特設スペースに飾られた笹を見上げる。冷房の風に揺れ、笹の葉がさらさらと音を立てる。BGMやざわめきがなくなったからだろう。数時間前は聞こえなかった音が落ちてくる。そういえば、シュウちゃんはなんて書いたのかな。帰りにこっそり見るつもりだったけど、美里さんが横にいるので断念する。帰ってから直接聞いてもいいのだし。  メインエントランスの横にある扉から外へ出れば、薄く湿気を纏った空気が肌に触れた。夜になって気温は落ち着いたけど、エアコンに慣れた体には暑く感じる。夏の湿った夜の匂いは、嫌いではないけど。 「高梨くん」  名前を呼ばれて視線を隣へと向ける。  柔らかな風が美里さんの解かれた髪を掬う。ふわりと甘い香りが触れると同時、美里さんの唇が動いた。 「今日、お店に来てた幼馴染の人、紹介してくれない?」 「ダ、ダメです!」 「え、なんで」  あまりの即答ぶりに美里さんが驚いた顔で声を揺らした。 「なんでって」 「彼女いるの?」 「いませんけど」  いるって嘘ついておけばよかったのに。うっかり素直に答えてしまう。  美人で優しくて美里さんみたいな人がシュウちゃんには相応しいのだろう。二人が並んで歩いてたらお似合いだって俺じゃなくても思うだろう。だけど、それだけはできない。こんなの自分から失恋するようなものだ。 「じゃあ、いいじゃない」 「ダメです」 「なんでよ? もしかして結婚してる?」 「してないですけど」  ――シュウちゃんは、嬉しいのかな。  迷ううちに、勝手に出会いを潰していいのだろうかと罪悪感が芽吹く。 「それともほかの人にも頼まれてる?」 「そ、そうなんですよ。内緒って言われてるんで言えなかったんですけど、友達に協力頼まれてて。だから美里さんには紹介できなくて」  美里さんの言葉に乗っかって嘘をつく。この嘘が美里さんとシュウちゃんの縁を妨害するもので、シュウちゃんにとって困ることになっても。それでも、俺は自分の想いを抑えられない。ズルくたっていい。「シュウちゃんが幸せになるなら、それでいい」なんて思えるくらいなら、とっくに諦めている。 「そっか。それは困るよね。うーん、残念だな。好みの人だったのに」  すみません、と謝りつつ、そっと息を吐く。見上げた空に雲はない。天の川なんて見えるようなところではないけれど、それでも目を凝らせば星のいくつかは発見できる。  ――星に託した願いごとを思い出す。  こんなズルくて自分勝手で噓を吐くやつの願いなんて、きっと叶えてはくれないだろう。一番の願いごとを書かなくてよかったのだ。そう思いながらも胸の奥はチリリと痛み続けた。
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