ゾンビなわたし

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 ──わたしは死体である。  名前はもう無い。  ……  思考、ただそれだけは、人間の領域として残っている。それに付随する記憶も、幾ばくかではあるけれど残ってはいる。 ──うるる、あああ。  …… 人語が話せない。当然だ。身体の半分は腐っていて、顔の半分は爛れていて、手足爪先の何本かから骨が覗いている。 衣服もぼろぼろ。  ……  帝国軍人を示すカーキの制服は色褪せ、腐乱した血肉が引っ付いたり乾いたりした結果、雑巾のように歪な灰色へ変色している。 ──ああ、はああ。 声が出る。果たしてこれが自分の意思で出しているのか、あるいは身体の何処かに空いた穴から流れ込む空気が、勝手に声帯を揺らしているのか、分かったものじゃない。 というか、何もかも分からない。何がどうなっていたか、どうしてこんな状態で、ここに居るのか分からない。  …… 暗い、洞穴のような場所。天井は低いが、横幅は広め。人の行き交いがしやすいように設計されたのだろうか。 いや、その筈だ。なにせここは秘密研究施設。大戦の鄒勢を覆し、我らが皇国を優勢成さしめんが為立ち上げられた地下基地なのだから。 ──うう、あ。 そういう事柄は、真っ先に思い出せる辺り、それなりに真面目な軍人だったのだろう。なにせ、今や何も無くなった様子の洞窟を、真面目に警らする様に、歩き回っているわけだし。  …… 順路は身体が覚えている。意識や思考を必要としないくらいには、しっかりと身体に染み込んでいる。右、左、正面。  どこも静かだ。灯りは無いし、音もしない。科学実験室、倉庫、厨房に食堂、そして立ち入り禁止の大扉。  何処を歩いても、出会うのは隙間風が精々。そして物言わぬ朽ちた雑貨、砕けた実験道具。  そして人骨だ。しかも無数に、藻掻き苦しみ、野垂れ死にの有様で。  ……  きっと、事故があったのだ。およそほとんどの人員が逃げ切れ無かったらしい、破滅的な事故。化学兵器の製造に於ける瑕疵というのは、どれも悲惨なものだから、人の形が残っているだけマシなのかも。  いいや、そうじゃない。この身体は、わたしは何だ?  ──うう、う  ………………    そういう、堂々めぐりを、もう何度となく繰り返している気がする。この洞穴に時間を示すものは無く、この身体は何かの超常が働いて、ずっと死体のまま動いている。  脳髄が溢れ出すように、思考が、意識が、像を結ばない。記憶は何もかも無くなって。  ……  ──お慕い、申し上げております。幾年月を経ようとも。それはきっと、来世でも──  …………    わたしは、きっと何かを決意したのだろう。だからこうして、皇国と民草の為に尽くす事を決めた。その結果として、死体の身体を引きずりながら、死体の間を歩き回る。  何とも、やり切れない結末だ。だから、こうも考えられる筈だ。  もう結末は迎えたのだから、後の人生、自由に生きてもいいだろう。  わたしは警備順路の終着点、立ち入り禁止の大扉を押し開けた。  ……  気が付けば、夜のなか。黒く満ちた帷の下で、草の匂いに虫の声音が染み入って。  意識は途切れ途切れ。穴を抜けた、洋館やら神社やらを尻目に歩いた気がする。あちこちに、ふらふらと。  足を支える黒い石畳み、掠れた白い線分。秘密研究所が出来た時は、まだ文明化程遠い開拓村といった風情であったのに。  遠くに街が見える。大きな港も見える。夜、人々の寝静まる様子のままに、活気は消え失せているけれど、そこには確かな生活が見て取れる。  ──うう、ああ……  そうなのか。彼の戦争の行方、決着がどのようなものであったかは分からない。  けれど、何もかもが無くなったわけではない。むしろこの島に於いてすら、街の灯りは煌々としているのだ。  ……  のろり、のろりと歩いて来た。けれど意識の途切れのおかげか、それほど時間は感じない。実際、夜の深みは増すばかり。  打って変わって、ここは本当に明るい場所だ。軒を連ねる商店街は郷愁を抱かせるし、街頭の光度は記憶にあるよりずっと鮮烈だ。  眩しい、という感覚を久しぶりに思い出す。その感動が、表情に現れることはないだろうけど。  ──うるる、あああ。  感嘆の唸り声、それしか発音できない声音で、綺麗だとか美しいだとか呟いてみる。聞いている人は居ない。  無人の目抜き通り、軒を連ねる商店に灯りは無く、動くモノの気配もない。おかげで凄く、気兼ねが無い。  羽を伸ばす、というのとは違うけれど、一時の自由を噛み締めているのだ。心臓は止まっているのに、妙に心が弾むものだ。  ──うう。うう。  目に映るものは何もかも新鮮だ。見たことの無い機械、色合いが豊かな張り紙には「龍神祭」と書かれていたり、豊かで穏やかな生活が見て取れる。  それが、どことなく嬉しい。とても個人的な、自己満足の範疇だけれど、幾年月が流れたかも分からない今、この時は確かに、自分達が守れた世の中なのだと分かるから。  不用意な事故の、不本意な結末の身空ではあるけれど、多少なりともその一助なれていれば幸いだなと、考えながら歩いていると。  ふと、一際目を引く張り紙。灯りの無い店舗の内側から、大いに主張を込めた様子で、大通りを睨みつける、広告の様な品物。  わたしはそれを目に留める。何か、見世物の宣伝だろうか。文字は読めるが、極彩色の主張を繰り広げる張り紙の意味は掴み損ねる。  しかしなんとも、これは……  ──う、う?  「にゃーお」  声がした。初めて、自分以外の声を聞く。人語のそれではないけれど。  通りの真ん中に三毛猫が居る。誰も通らないのならおれのものだと言いたげなほど、のびのび自由に寝転がり。  大きなあくびを一度して、ちらりとこちらを鋭く見遣った。この辺りの親分だろうか、視線や毛並みにもある種の貫禄が宿っている。  数秒、三毛猫はわたしを見つめたあと、するりと立ち上がり大通りの先へ歩いていく。時々、ふと立ち止まってこちらを見返し、また進むを繰り返しながら。  こっちへどうぞ、なんて言われている気分だ。わたしは素直に従ってみる。    ……  街から外れた位置にある店舗。木造の、年季の入った、しかしうらびれた感じのしない佇まい。  駄菓子屋だ。小さな島なのに、ほんとうに生活が充実しているらしい。  「にゃーお」  三毛猫は店先の長椅子に座り込む。口に咥えた青い袋を自分の足元に。  「にゃーお」  三毛猫はわたしを一瞥しながらひと鳴き。何を言いたいかは分かるので、わたしはその声に従って長椅子に座った。  青い袋を手に取る。氷菓子だろうか。すごく、ほんのりと冷気を感じる。  死んだ身体なのに感覚があることは少しびっくりだけれど、それ以上に驚いたのはこれだけしっかりした冷凍技術がその辺りにあること。  時代が進んだことを感じる。いい世の中なんだなぁと、ぼんやり考えてから、わたしは袋を開けた。  イガグリ頭の少年が溌剌とした様子で商品を掲げている。微笑ましいけど、生憎笑う筋肉が無い。  わたしは氷菓子を半分に折り、椅子の上に置いた。溶け始めたそれを三毛猫は嬉しそうに舐めていて、中天には満月が浮かんでいる。  綺麗な月だ。それを見上げる。  何時か、何処かで、誰かとこんな、穏やかな時間を過ごした気がする。何気なくふたり、椅子に座って同じ方向を眺めて。  ……  わたしは半分の氷菓子を食べてみた。  ──う、う。  美味しかった。甘くて、爽快な味わい。袋を見て、また食べたいからの、名前を確認したくなるほど美味しい。  ガリガリくん、と書かれていた。また食べようと思って、良く噛んで食べる。味覚ははっきりと美味を伝えてくれるのは、正直嬉しい。  こういう喜びを、わたしは誰かと分かち合っていたのだろうか。深い靄の中に石を投げ込むように、思考は判然としない。  居たかもしれない、という感覚はある。けれどそれは戦前の記憶で、ここまで時代が進んでいるなら、その人はもう居ないだろう。  寂しいものだ。自分を覚えて貰えない世の中、というのは。しかも今に於いて、それを行うことは難しい。  死んだあとの身体、死後の人生な今であるけど、文明の発展や生活の充実を見る事は会あっても、誰かと時間を共有することは多分もう無理だろう。こんな居姿だし、そもそも動く死人なわけだし。  ちょうど、あれだ。街中で見た張り紙の人物同じような。  「にゃあ」  と、傍らで、三毛猫が満足げに鳴いた。こちらを見上げ、嬉しそうに。自慢げに、氷菓子を平らげたと。  ……まぁ、うん。今は、この時間を楽しむのも悪くない。何時まで続くか分からないけど、今はかなり充実している。  わたしは氷菓子の最後の一口を頬張り、残された木の棒を見遣る。あたり、と書いてある。  今は代金がないから、これで勘弁して欲しい。何時か、その分のお金を返しに来るから。  わたしは木の棒を椅子に置いて、のろりのろりと立っ立ち上がる。せめて何か、名義とか名前とか残せれば良いけれど、生憎それももう無いし。  ──あ。  そうだ、ならば新しく、名付けるとしよう。丁度それらしい、自分と似た様子の人物を、あの張り紙で見たのだから。  わたしは置いた木の棒を手に取り、骨の露出する指先でそこに新しい名付けを刻む。ひとまずは、そう名乗るという意味で。  ゾンビ、と。    わたしはゾンビ。名前は、もう有る。    
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