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 生ぬるい風が吹いていた。島の中央部にいてさえ潮を感じさせるべた付きに、早くも風呂が恋しくなる。僕は来た道を引き返し、旅館への帰途を急いだ。  お世辞にも贅を尽くしたとは言い難い夕食のあと、僕は女将に旧診療所について尋ねてみた。 「ああ、あそこですか」  そう答える女将の顔は、船頭と同じく陰りを見せた。いったい何があるというのだろう。常識的な対応をするならば、空気を読んで質問を撤回するべきなのだろうが、そこは学者の性。僕は一層の好奇心を掻き立てられ、食い入るように女将の口の動きを追った。  旧診療所跡――別名溝口邸は、溝口・ロドリゴ・ジュリアーノという医者の邸宅である。ジュリアーノは終戦直後に来日し、日本人女性と結婚して本国に帰化した。しかし、妻を早くに亡くしてしまうと、その後は段々と人を避けるようになり、やがてこの神在島へと移住してしまう。  そもそも彼が移住を決めたのは、友人であった商人の令嬢を預かるためだったと言われている。その令嬢は重い病気を患っており、療養のためには神在島の長閑で豊かな環境が必要だったのだ。神在島でのジュリアーノは元来の朗らかな為人に戻り、ご令嬢には非常に尽くしていたほか、島民とも良好な関係を築いていたという。  だが、一夜にして屋敷は無人となった。  嵐が過ぎた翌日、診療所を訪れた島民が見たものは、身も凍るような惨状だったという。
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