1.

1/3
12人が本棚に入れています
本棚に追加
/13ページ

1.

 外海にしては凪いでいる、と思った。 「見た目だけですよ。流れは結構早いですから、泳ごうとすれば攫われます」  船頭はそう言いながら長い櫂を突き刺した。彼の言うことが本当ならば、その流れを横切るように小舟を運ぶ彼の腕は、なかなか優れたものなのだろう。  美十島、神在島。  ふたつの島に挟まれたこの海峡は、一見すれば広大な大河のように見えなくもない。しかし、この深い紺碧の水面は、海の深さと姿なき微生物の成せる業。時折水面に手を差し伸べれば、腕先の僅かな影に釣られて飛び魚が跳ねた。透明の翼を広げたこの奇妙な魚は、文字通り空を滑空する。その姿は小鳥にも似て、彼らを狙う海鳥たちと光の筋を描いていた。  ふと、海面に影が差す。見上げれば、断崖が目の前に迫っていた。 「これが神在島ですか」  僕の呟きは問い掛けではなかった。船頭もそれがわかっていたのだろう、目を伏せて頷く素振りをしただけで、言葉を返すことはなかった。  僕は片手で日差しを遮りながら、そびえ立つ断崖を見上げた。切り立った崖はその厳格さでもって来島者を威圧し、離島が抱える孤独と哀愁を物語る。右手前方にはこれから船が目指す寂れた港が見えていたが、僕の視線は別のものに引き寄せられていた。青く茂る松の林に埋もれる、白い外装の切妻屋根。和の趣が漂うこの島には不似合いな洋館がそこにあった。 「船頭さん」  興味のままに、僕は口を開いていた。 「あの建物は?」  船頭は振り返り、一瞬表情を曇らせる。再び落とした視線は深く海に潜っていた。 「旧診療所跡でさぁ。戦争の前くらいですかねぇ。外国人のお医者さんが住んでらしたんだそうです」 「風情のある建物ですね。今はどなたがお住まいに?」 「いえ、すっかり廃墟になっとります」
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!