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例えば家が隣り同士で、朝に叩き起こしに来るようなツンデレ幼馴染がいたら。
例えばお兄ちゃん大好きな妹が、朝に寝惚けて布団の中に入ってくるような。
例えば才色兼備な生徒会長が小さい時に結婚の約束をした婚約者だったなら。
まあ、すべてあるわけないって分かっているんだけれども。
「今日は学校に行くのか?」
無精髭を生やしたままの親父が声をかけてきた。久しぶりにまともに顔を見た気がする。こんな顔だったっけ?
「今日はまだ体調がいいから行こうかなって。ダメになったらすぐ帰る。」
昔から休みがちだったが、ここのところ本当に朝に弱い。起きたら昼だったとか、夕方だったとかよくあることだ。今日は雨だったからなんとか起きることに成功した。
窓の外を見る。窓の外を見ているはずなのに空は家の中よりも暗い。雲がひしめいてギュウギュウにおしくらまんじゅうしているようだ。全くの隙も与えず太陽の姿を隠している。まあ、こっちの方が俺にとっては好都合なのだが。
狭い台所の狭いパントリーから、賞味期限切れの食パンを取り出す。親父は朝食べないし、俺もたまにしか食べないのでいつも食パンの美味しい期限を逃してしまう。まあ、グルメではないのでカビが生えていない限り食べる。前まではトースターで焼いていたが、あまりに誰も掃除をしなさ過ぎて埃に引火してボヤになった。それ以来まめに掃除をするわけでもなく、トースターを使うことを諦めた。袋から出した食パンをそのまま口に持っていく。前に食塩不使用という食パンが安売りされていて買ってみたのだが、あれは虚無の味だった。嚙んでも嚙んでも口の中の異物が無くならない。もう買わない。
食塩不使用の食パンよりかはいくらか味のある食パンを咥えながら、テレビのリモコンを押す。通販番組をやっていた。切れ味抜群の包丁に傷がつきにくいまな板に一瞬でピンチが外れるハンガーと桐ダンスがセットになって付いてくるそうだ。どれもいらねー。ザッピングしていると、どっかの外国の風景を流しているチャンネルがあった。緑がたくさんで、湖は澄んでいて、野生の動物は食ったり喰われたりしていた。そこの天気は晴れていた。それを見てこんなところにって見たいなぁとか、ここが最後の楽園やでー、とかいう人もいるんだろうな。
「ここに行ってみたいのか?」
無精髭を剃り終えた親父が後ろから声をかけてきた。剃ったおかげで年齢がぐんと若返った。一緒に外に出ていた頃はよく兄弟に間違われていたっけ。
「ただ見てただけ。」
「そっか。父さんもう出るからな。戸締りよろしく。」
返事の代わりに手を後ろ手に振ってサインとした。数秒後にガチャンと扉が閉まる音がする。
さっきまで学校に行ってもいいかなと思っていたが、なんとなく行く気が失せてしまった。もう一回ベッドに入りなおしてもいいのだが眠気はない。何より今日は俺にとっていい天気だ。スウェットを脱いでTシャツとジーンズに着替える。このTシャツ、最後に洗ったのいつだっけ?まあ臭わなければいっか。親父に言われたとおりに扉の施錠をした。食パンはもう食べきっていた。でもまだ腹は減っている
「久しぶりに狩りに行くか。」
団地の最上階に暮らす俺たちは滅多なことが無ければ窓からの訪問者なんていない。リビングの大きな窓を開けてベランダと言ってもいいのか微妙な広さのベランダに出る。鍵は閉めない。まあ外側からなんて閉められないし、俺以外にここから出入りする奴もいないだろう。軽く準備運動をする。うんと伸びをして背中から羽根を出す。どういった原理か分からないが服を破くことはない。もし羽根がTシャツを破いていたら俺のクローゼットはやたらパンクになっていたと思う。
ここら辺に住む人間はあまり空を見上げない。今日みたいな天気なら尚更だ。おかげで見つかることもない。玄関から持ってきておいたスニーカーを履いてベランダの縁に足をかける。ポケットにはスマホ、持ち物はそれだけ。財布も地図も電話も写真もこの一つのデバイスで完結するなんて人間ってすごいものを発明したな、なんて思いながら縁を蹴り空に飛び立つ。
例えば家が隣り同士で、朝に叩き起こしに来るようなツンデレ幼馴染がいなくても、
例えばお兄ちゃん大好きな妹が、朝に寝惚けて布団の中に入ってこなくても、
例えば才色兼備な生徒会長が小さい時に結婚の約束をした婚約者でもなくても、
そもそも俺、人間じゃないし。
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