chapter.1 グレーゾーン

7/18
前へ
/109ページ
次へ
          ***  ジャスミンは、ガスパチョから手渡された資料にざっと目を通した。  ソファに深く座り直し、すでに冷めてしまったコーヒーを飲み干す。 「なるほど、このハイゼンって男はスパイなのか」 「まだ疑惑だよ」 「ボクに言わせれば、話題に昇った(グレー)の時点で、すでに黒なのさ」 「今回の仕事は、トゥイユ議長直々のご依頼だ。お前を呼び戻してくるあたり、よっぽど複雑な事情があるんだろうな」 「仕事とはいえ、仲間を殺すのは気が引けるなぁ……」 「へぇー、お前にも慈悲があったのか。感情はないはずだろ?」  ジャスミンは唇を尖らせた。 「君はボクをサイコパスか何かだと思っているのかい? エゴのために人殺しはしないし、仕事なら、なおさら……」  ジャスミンはそこで言葉を切り、話題を変えた。 「掟には忠実であれ、か……。良くも悪くも、魔術師は窮屈な生き方を強いられる……。ハイゼンもきっとそう思っていたに違いない」 「いいえ、それは違うわ」  誰かが間髪入れずに否定した。 「彼は素晴らしい人材でしたよ、ジャスミン」  現れたのは、褐色の肌をしたエルフの女性だった。  室内の空気が一気に張りつめる。彼女が立っているだけでそうさせるのだ。 「トゥイユ・ラーダ議長」  ガスパチョはあわてて立ち上がり、背筋をピンと正した。  一方、協会の最高権力者を前にしても、ジャスミンは悠々としていた。ともすれば、それは不遜とも受け取られかねない態度だった。 「おい、最高議長の前だぞ!」  ガスパチョは気が気でない様子だ。 「別に構いません、羊人のあなた」  トゥイユは彼を制した。  議長は、ジャスミンのそういった態度には、慣れっこなのだ。 「すでに詳細は知っていますね、ジャスミン?」 「ハイゼン、ってエルフの魔術師を『追えば』よろしいんですね?」  トゥイユは目顔で頷く。 「彼には、南部大陸某国のスパイの嫌疑がかけられています。協会を裏切ることは大罪です。死に値します」  トゥイユは表情ひとつ変えずに言った。 「ところで、議長は、ハイゼンと関わりはあったのですか?」 「ええ。彼は、よく私のにも従事させてきました。静かで、聡明な人物でした。情に左右されない沈着さを、私は高く買っていましたとも。  彼は、〈追跡者〉として、ジャスミン、あなたと同様に、国家の安全を陰から守っていたのです」 「んで、蓋を開けてみたら、そのハイゼンこそが、平和を脅かす元凶だった訳ですね」  ジャスミンは足を組み変えた。 「ええ、実に嘆かわしい話です。優秀な人材が、また、失われようとしています。しかし、私情のために国家を危機に晒すわけにはいきません。一刻も早く、ハイゼンを捕らえるのです」  ガスパチョは横目でジャスミンを見た。  一見すると、普段通りリラックスしているようにも見えるが、目が違った。それは、仕事をする者の鋭い眼差しだった。 「ハイゼンが得意とする魔法はなんですか? 彼と直接対峙する可能性があるのなら、相手の弱点はおさえておきたいのです」  ジャスミンが訊いた。 「情報は、すでに渡した資料にすべて書かれています。普段、そんな質問をされていたら、時間の無駄と切り捨てていたでしょう。しかし、ひとつだけ、その資料には書いていない情報があります。──彼は、〈催眠術〉を得意としています」  真っ先に反応したのは、ガスパチョだった。 「〈催眠術〉? 失礼ですが、それは、禁忌のはずでは?」  トゥイユの黒々とした目が、冷ややかに向けられる。 「羊人のあなた、あなた、名は?」 「ま、魔導技術研究開発部門、第四班所属、オソ・レロ・ガスパチョ、と言います……」 「そう。では、あなた、今聞いたことは他言無用です。あなたはのですから。当然、今のあなたの発言も聞かなかったことにします。……わかりましたね?」  背中に、一筋の冷や汗が流れていくのを感じる。有無を言わさぬその圧力に、ガスパチョは屈した。 「は、はい……」  足元は奈落の底、ガスパチョはその上に、綱一本で吊るされている。綱を握るのはトゥイユ。彼女が手を離せば、ガスパチョは奈落へと真っ逆さま。生かすも殺すも彼女次第。そんな恐怖を彼は感じていたのだ。 「少し換気をしたほうがよろしいのでは? 空気が(よど)んでいます」  トゥイユは室内を見回したあと、ジャスミンに視線を戻した。 「では、そろそろ私も失礼します」  ジャスミンはソファから立ち上がり、胸に手を添える、エルフ式の優雅なお辞儀をした。 「この度は、議長直々に、こちらまでご足労いただき大変感謝いたします」 「ジャスミン、急ぎなさい。『時間は有限』ですよ……」  ジャスミンは、議長がいなくなるまで、お辞儀を維持した。  しばしの間、ガスパチョの研究室は時間が停止したように静かになった。  緊張の糸が切れたように、ガスパチョが椅子にへたり込んだのを皮切りに、再び時は動き出す。 「はぁ……。俺のクビが飛んだかと思ったぜ……」 「君が権力者に楯突くところ、初めて見た」 「馬鹿言え、不本意だろうが!」 「そうなの? けっこう格好いいと思ったけどなぁ……」 「そ、そうか? 格好い──って、おい! 俺は騙されねえぞ。お前の、人をおだてる、って常套手段はさあ!?」  ジャスミンは、てへへ、といたずらっぽく舌を見せる。 「んで、どうすんだ、ジャスミン?」  どう、とは、ハイゼン探しについてのことだろう。 「まずは、資料に載っていた、ハイゼンの監視役だった魔術師に会ってみようと思う」  ガスパチョは新しく煙草に火をつけた。 「無茶だけはするなよ」 「わかってるって」 「お前はいい魔杖のデバッガーなんだからな」  ジャスミンはニヤリと口角を上げた。 「おっ、本性を現したな最低な科学者(マッドサイエンティスト)め……」  ジャスミンは新たな魔杖を持って、扉へと向かった。そして、そこで足を止めた。 「そう言えばさあ、ガスパチョ」 「うん、なんだ?」 「〈語り部〉って魔術師かな? 聞いたことある?」  ガスパチョは眉を寄せた。  それは、彼女自身も確信を持って言っているわけではなさそうだった。 「いや、ないな。そいつがどうかしたか?」  少しの沈黙の後、ジャスミンは答える。 「……ううん、ならいいや」  しかし、ガスパチョは勘のいい男だった。 「もしかして、そいつがイジーさんの呪いに関係あるのか?」  ジャスミンは硬直していた。彼の視線が背中に突き刺さる。  少しの間、答えあぐねていたジャスミンだったが、ガスパチョのほうを振り向いたときには、いつものように余裕のある微笑をたたえていた。 「オソ・レロ・ガスパチョ、(さと)い男だ……。杖、ありがとね。コーヒーもごちそうさま」  そう、言い残してジャスミンは研究室を出ていった。  ジャスミンの笑顔にはいくつかの種類がある。例えば──  何か悪巧みをしているときの微笑。  他人に思考を悟られないように張りつけた微笑。  己の感情に気づかないように、自身の心を騙すための微笑。  などだ。  彼女と長い付き合いのガスパチョには、培われた勘があった。 ──別れ際の彼女の笑顔は、三つ目だ。  ジャスミンは、『感情をはく奪された』のだと、よくうそぶいている。確かにそれは事実なのだろう。  しかし、さっき見せた彼女の目には、深い『悲しみ』と『怒り』がにじんでいたのを、ガスパチョは見逃さなかった。
/109ページ

最初のコメントを投稿しよう!

15人が本棚に入れています
本棚に追加