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ジャスミンは、ガスパチョから手渡された資料にざっと目を通した。
ソファに深く座り直し、すでに冷めてしまったコーヒーを飲み干す。
「なるほど、このハイゼンって男はスパイなのか」
「まだ疑惑だよ」
「ボクに言わせれば、話題に昇ったの時点で、すでに黒なのさ」
「今回の仕事は、トゥイユ議長直々のご依頼だ。お前を呼び戻してくるあたり、よっぽど複雑な事情があるんだろうな」
「仕事とはいえ、仲間を殺すのは気が引けるなぁ……」
「へぇー、お前にも慈悲があったのか。感情はないはずだろ?」
ジャスミンは唇を尖らせた。
「君はボクをサイコパスか何かだと思っているのかい? エゴのために人殺しはしないし、仕事なら、なおさら……」
ジャスミンはそこで言葉を切り、話題を変えた。
「掟には忠実であれ、か……。良くも悪くも、魔術師は窮屈な生き方を強いられる……。ハイゼンもきっとそう思っていたに違いない」
「いいえ、それは違うわ」
誰かが間髪入れずに否定した。
「彼は素晴らしい人材でしたよ、ジャスミン」
現れたのは、褐色の肌をしたエルフの女性だった。
室内の空気が一気に張りつめる。彼女が立っているだけでそうさせるのだ。
「トゥイユ・ラーダ議長」
ガスパチョはあわてて立ち上がり、背筋をピンと正した。
一方、協会の最高権力者を前にしても、ジャスミンは悠々としていた。ともすれば、それは不遜とも受け取られかねない態度だった。
「おい、最高議長の前だぞ!」
ガスパチョは気が気でない様子だ。
「別に構いません、羊人のあなた」
トゥイユは彼を制した。
議長は、ジャスミンのそういった態度には、慣れっこなのだ。
「すでに詳細は知っていますね、ジャスミン?」
「ハイゼン、ってエルフの魔術師を『追えば』よろしいんですね?」
トゥイユは目顔で頷く。
「彼には、南部大陸某国のスパイの嫌疑がかけられています。協会を裏切ることは大罪です。死に値します」
トゥイユは表情ひとつ変えずに言った。
「ところで、議長は、ハイゼンと関わりはあったのですか?」
「ええ。彼は、よく私の頼みずらい仕事にも従事させてきました。静かで、聡明な人物でした。情に左右されない沈着さを、私は高く買っていましたとも。
彼は、〈追跡者〉として、ジャスミン、あなたと同様に、国家の安全を陰から守っていたのです」
「んで、蓋を開けてみたら、そのハイゼンこそが、平和を脅かす元凶だった訳ですね」
ジャスミンは足を組み変えた。
「ええ、実に嘆かわしい話です。優秀な人材が、また、失われようとしています。しかし、私情のために国家を危機に晒すわけにはいきません。一刻も早く、ハイゼンを捕らえるのです」
ガスパチョは横目でジャスミンを見た。
一見すると、普段通りリラックスしているようにも見えるが、目が違った。それは、仕事をする者の鋭い眼差しだった。
「ハイゼンが得意とする魔法はなんですか? 彼と直接対峙する可能性があるのなら、相手の弱点はおさえておきたいのです」
ジャスミンが訊いた。
「情報は、すでに渡した資料にすべて書かれています。普段、そんな質問をされていたら、時間の無駄と切り捨てていたでしょう。しかし、ひとつだけ、その資料には書いていない情報があります。──彼は、〈催眠術〉を得意としています」
真っ先に反応したのは、ガスパチョだった。
「〈催眠術〉? 失礼ですが、それは、禁忌のはずでは?」
トゥイユの黒々とした目が、冷ややかに向けられる。
「羊人のあなた、あなた、名は?」
「ま、魔導技術研究開発部門、第四班所属、オソ・レロ・ガスパチョ、と言います……」
「そう。では、あなた、今聞いたことは他言無用です。あなたは何も聞いていないのですから。当然、今のあなたの発言も聞かなかったことにします。……わかりましたね?」
背中に、一筋の冷や汗が流れていくのを感じる。有無を言わさぬその圧力に、ガスパチョは屈した。
「は、はい……」
足元は奈落の底、ガスパチョはその上に、綱一本で吊るされている。綱を握るのはトゥイユ。彼女が手を離せば、ガスパチョは奈落へと真っ逆さま。生かすも殺すも彼女次第。そんな恐怖を彼は感じていたのだ。
「少し換気をしたほうがよろしいのでは? 空気が澱んでいます」
トゥイユは室内を見回したあと、ジャスミンに視線を戻した。
「では、そろそろ私も失礼します」
ジャスミンはソファから立ち上がり、胸に手を添える、エルフ式の優雅なお辞儀をした。
「この度は、議長直々に、こちらまでご足労いただき大変感謝いたします」
「ジャスミン、急ぎなさい。『時間は有限』ですよ……」
ジャスミンは、議長がいなくなるまで、お辞儀を維持した。
しばしの間、ガスパチョの研究室は時間が停止したように静かになった。
緊張の糸が切れたように、ガスパチョが椅子にへたり込んだのを皮切りに、再び時は動き出す。
「はぁ……。俺のクビが飛んだかと思ったぜ……」
「君が権力者に楯突くところ、初めて見た」
「馬鹿言え、不本意だろうが!」
「そうなの? けっこう格好いいと思ったけどなぁ……」
「そ、そうか? 格好い──って、おい! 俺は騙されねえぞ。お前の、人をおだてる、って常套手段はさあ!?」
ジャスミンは、てへへ、といたずらっぽく舌を見せる。
「んで、どうすんだ、ジャスミン?」
どう、とは、ハイゼン探しについてのことだろう。
「まずは、資料に載っていた、ハイゼンの監視役だった魔術師に会ってみようと思う」
ガスパチョは新しく煙草に火をつけた。
「無茶だけはするなよ」
「わかってるって」
「お前はいい魔杖のデバッガーなんだからな」
ジャスミンはニヤリと口角を上げた。
「おっ、本性を現したな最低な科学者め……」
ジャスミンは新たな魔杖を持って、扉へと向かった。そして、そこで足を止めた。
「そう言えばさあ、ガスパチョ」
「うん、なんだ?」
「〈語り部〉って魔術師かな? 聞いたことある?」
ガスパチョは眉を寄せた。
それは、彼女自身も確信を持って言っているわけではなさそうだった。
「いや、ないな。そいつがどうかしたか?」
少しの沈黙の後、ジャスミンは答える。
「……ううん、ならいいや」
しかし、ガスパチョは勘のいい男だった。
「もしかして、そいつがイジーさんの呪いに関係あるのか?」
ジャスミンは硬直していた。彼の視線が背中に突き刺さる。
少しの間、答えあぐねていたジャスミンだったが、ガスパチョのほうを振り向いたときには、いつものように余裕のある微笑をたたえていた。
「オソ・レロ・ガスパチョ、敏い男だ……。杖、ありがとね。コーヒーもごちそうさま」
そう、言い残してジャスミンは研究室を出ていった。
ジャスミンの笑顔にはいくつかの種類がある。例えば──
何か悪巧みをしているときの微笑。
他人に思考を悟られないように張りつけた微笑。
己の感情に気づかないように、自身の心を騙すための微笑。
などだ。
彼女と長い付き合いのガスパチョには、培われた勘があった。
──別れ際の彼女の笑顔は、三つ目だ。
ジャスミンは、『感情をはく奪された』のだと、よくうそぶいている。確かにそれは事実なのだろう。
しかし、さっき見せた彼女の目には、深い『悲しみ』と『怒り』がにじんでいたのを、ガスパチョは見逃さなかった。
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