プロローグ 魔術師探偵

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プロローグ 魔術師探偵

 日の光も届かない薄暗い路地の真ん中で、デニス・ルーブルは急に立ち止まった。  くたびれたジャケットに色あせたパンツ姿、無精ひげを生やした男は人狼。尖った耳と尻尾を有している。  彼の行く手を遮るように、数人のドワーフが物陰から現れた。背後でも同じように、別のドワーフたちが退路をふさいだ。彼らはバットやナイフなどで武装しており、真っ当な組織に属していないのは明らかだった。  リーダー格のドワーフが両手を広げながら、友好的に近づいてきた。 「デニス・ルーブル、この街で一番くそったれな人狼! 会いたかったぜ、こん畜生!」  デニスは逃げ出したい気持ちを必死に抑え、平静を装う。 「ワッツ、約束は約束だ。俺も男だ、夜逃げなんざしねえさ」 「尻尾巻いて逃げ出しても別に構わなかったんだぜ? お前の娘をバラバラに引き裂いて、ガニラ湾の魚の餌にしてやるだけだからなァ」  デニスは拳を固く握った。 「ワッツ! 娘に手出しはしない約束だろう!?」 「タイムアップなんだ、デニス。借りた金の返済を滞らせる男が約束を語るのかい?」 「金ならここにある!」  デニスは懐から出した茶封筒をドワーフに見せつけた。 「借りた金だ。返す金だ!」  間近で並んだ人狼とドワーフの身長の差は明確だった。ワッツの身長はデニスの胸の高さしかない。  ドワーフは総じて低身長で恰幅がよい。だが彼らは屈強な種族だ。持ち前の腕っぷしを生かして、借金取りなどの荒事に従事する者も少なくない。  彼らがまさにそうだった。  デニスは多額の借金を抱えていた。長らくそれを滞納し、是が非でも、今日中に提示された額を支払わねばならない状況にまで追い詰められていたのだ。  ワッツはデニスの手から茶封筒を引ったくると、すぐに中身を確認し始めた。中身は紙幣。この街〈ブラックウォーター〉で流通しているバロン紙幣である。  しかし、金額を数え終えたワッツは、あからさまに不機嫌な顔をしていた。 「これだけかァ? 俺が言った額からはほど遠いよなあ?」 「今はこれだけだ。だが必ず全額返済す──」  デニスが言い終える前に腹に鈍痛が走った。ワッツが殴ったのだ。  デニスは膝をつき、前屈みに倒れ込んだ。 「俺は百万バロン用意しろと言ったんだ! そのために一週間の猶予も与えた。額だって譲歩した。なのに貴様はなんだ!? 半額も用意できねえのか!?」 「ま、待て……俺は」  ワッツはあごをしゃくって部下に、 「依頼主からの指示だ。コイツをバラす。連れていけ」  と、指示した。  取り巻きのドワーフたちがデニスを立たせる。デニスは両脇から抱え上げられた。 「俺たちは待った。チャンスも与えた。だがお前は、俺たちが差し伸べた手に唾を吐きやがった」 「頼む、あの娘だけは、ココだけは見逃してくれ……」  人狼の悲痛な願いにワッツは聞く耳を持たない。 「連れていけ」  この街で、借金返済を滞らせた者に待っているのは悲惨な結末だけだ。  運がよければ、数日後に身元不明の遺体となって街のどこかで発見されるだろう。だがほとんどの場合は違う。身体を壊して使いものにならなくなるまで、ひたすらに過酷な労働を強いられるのだ。  その場所はどこなのか、それはわからない。街の外に広がるだだっ広い荒野のど真ん中、その採掘場かもしれないし、あるいはこの街の地下で非合法な仕事に従事させられるのかもしれない。  いずれにせよ、彼らは想像を絶する恐怖と苦痛の中で孤独に死んでいくのだ。  だが、迫り来る最悪の未来を前に、デニスは至って冷静だった。  ワッツは不審に思った。 「恐れいったぜ。ずいぶんと肝が座ってんじゃねえか。お前怖くねえのか?」 「へへっ、怖い? 何が?」 「これからお前は、人権をはく奪されて、家畜みてえに働かされるんだぞ。俺は、お前みたいな金も返せねえバカを、たくさん拉致ってきたが、全員が命乞いやら発狂するやら泣き喚いたもんだぜ?」 「…………で?」  デニスの顔を覗き込んだワッツはぎょっとした。──笑っていたのだ、この男は……!?  それが不愉快だった。デニスのにやけ面が堪らなく憎い。  ワッツは感情に任せて彼の顔を殴りつけた。 「いい加減、お前がにやけ面さらして嘘八百列べるのに飽き飽きしてんだよ! みっともなく命乞いでもしやがれ!」  ワッツが怒鳴ったそのとき、よく通る女の声が路地に響いた。 「借金取りは随分と楽しそうな稼業だ」  ドワーフたちが声のほうを一斉に振り返る。  そこには、薄い笑みを張りつけた羊人(カプリコーン)の女が立っていた。歳は二十代半ばといったところだろうか。  デニスが安堵を漏らした。 「ジャスミンさん、遅かったじゃないですか!」 「ルーブルさん、コイツらが君が言った殺し屋? 見たところ、毒にも薬にもならないチンピラじゃん」 「あん? 誰が何だって? 女、ナメた口利いてると痛い目を見るぞ!」  血の気の多いドワーフがジャスミンに殴りかかった。  会社勤めの真っ当な人間なら、萎縮して逃げ出すのだろうが彼女は違った。  バットを大きく振りかぶり、がら空きになったドワーフの真正面に、ジャスミンは拳を素早く打ち込んだ。その拳はあごを直撃した。強烈な脳震とうを引き起こしたドワーフは呆気なく気絶してしまった。一瞬のできごとだった。 「デ、デイビスを、一撃で……」  部下の一人が呆気にとられた。  ドワーフたちの間に緊張が駆け巡る。対して彼女は涼しい顔のままだった。 「ビビるな、女は一人だ。──なあ、お嬢さん、少しはできるようだが、大勢相手に無事で済むと思っているのかな?」  ワッツはデニスの喉もとにナイフを突きつけた。遠回しに降参を促しているのだ。 「多勢に無勢、おまけに人質まで取られてしまった、か……」  ジャスミンは、ふふふ、と不敵に笑った。まるで、それで君たちは勝ったつもりかい? とあざ笑うかのように。 「それでは見せてあげよう──」  ジャスミンは杖の柄を、とんとん、と地面に打った。すると、杖の先端にはめ込まれた宝珠が淡く発光した。 「魔術の真髄を……」  周囲の空気が振動する。彼女を中心に、集った光の粒子がまばゆい閃光となって一気に拡散した。深海の青を彷彿とさせる輝きが路地を包み込んだ。  ワッツは思わず目をおおった。  少しの沈黙のあと、強く吹きつける風を感じた。  ワッツが目を開けると、そこはビルの屋上だった。 「こ、こいつは何だ!? 何がどうなっていやがる!?」  ワッツは困惑して周囲を見回した。正面にはジャスミンとデニスが。だが部下の姿は見えなかった。  ジャスミンの持つ杖が太陽の光を反射して、きらりと輝く。長さは背丈ほど、先端は宝珠をおおうように三日月状に湾曲している。装飾の少ないシックな杖だ。  それを見てワッツは察した。──あれは魔杖だ。魔法を操るための触媒だ、と。  ジャスミンは転移魔術を行使したのだ。ワッツの部下たちを置き去りにして、近くのビルに転移したのだった。  ジャスミンは、あえてワッツだけは同席させた。なぜか、それは、彼らに今後、デニスへ手出しをさせないためだった。  時は数時間前に遡る。ジャスミンはデニスから仕事の依頼を受けた。ドワーフたちに命を狙われているから護衛をしてほしいと。ジャスミンはそれを了承した。  デニスを護衛して殺し屋たちから逃げるだけなら仕事は容易い。そのあとは彼から報酬をもらって家に帰るだけだ。だがそれでは不十分だとジャスミンは感じた。  もし仮に、ジャスミンと別れたあとに、殺し屋が再び襲ってきたら、彼はひとたまりもないだろう。それでは仕事人として失格だ。  だからこそ、ドワーフたちには、デニスに二度と手出しをさせないように灸を据える必要があるのだ。  でも『殺し』はしない。それは、彼女の定めた『掟』が許さなかった。  ワッツは抑えきれない怒りをあらわにした。同時に焦りと恐怖すらも感じていた。  数の利を失い、あまつさえ未知数の力を秘めた魔術師を相手取っているのだ。  正直、ワッツに勝算はなかった。それでも、逃走と敗北を認めることはプライドが許さなかった。 「魔術師がいったい何用だ?」 「元魔術師さ。ボクはただの探偵だよ」 「チッ、こすい真似しやがって! おい、デニス! 返済の金はねえのに、ペテン師を雇う金はあるのかよ!」 「それは違うぞ、ワッツ。取り引きはお互いが公平な立場であるべきじゃあないか? 彼女はそのための抑止力さ」  デニスはジャスミンの背後に隠れてぶいぶい物を言っている。  口だけは達者な小物だな、と、ジャスミンは彼を辛らつに評価した。 「耳が腐るぜ! 借金を踏み倒す奴の言葉はさあ!? 金なんざ関係ねえ、てめえをぶっ殺してやる!」 「ひっ!」  怯える小動物のように、デニスは身を縮めた。  ジャスミンは首だけ動かしてデニスを見る。 「どーする? 交渉は決裂したみたいだけど……」 「ここまでイキがっちまったんだ。引くにも引けねえよ……。ところであんた、本当に大丈夫なんだよな? 守ってくれるんだよなあ?」 「もちろん」 「アイツをぶっ飛ばしてくれるんだよな?」 「死なない程度に加減するよ」 「も、もし、万が一にもあんたが負けたら──」 「あーもう、わかったわかった、邪魔だから少し離れてて……」 「往生しろや、クソ人狼ォ!」  ジャスミンが、邪魔だったデニスをぞんざいに突き飛ばしたのと、ワッツがナイフを構えて突っ込んできたのはほぼ同時だった。  ジャスミンは突き出されたナイフを紙一重で躱した。グラデーションの入ったアイボリー色の彼女の髪がふわりと揺れる。  ワッツはジャスミンに休むひまを与えず、何度も攻撃を重ねた。だが、紫水晶のような彼女の瞳は、冷静にその軌道を見極めていた。  魔術師の魔法は必殺の威力を秘めている。だが同時に無視できない欠点も抱えていた。  そして、ワッツがしゃかりきになって攻める手を緩めない理由もわかった。 「ひとたまりもないよなぁ? こんだけ攻められりゃあ、お得意の魔法も唱えられねえだろ?」  魔法は発動するまでに、詠唱という予備動作が必要だった。つまり、立て続けに攻撃をされると、魔法の術式を構築するひまがないのだ。  ワッツはそれを理解していた。 「そらそらそらっ!」  矢継ぎ早に繰り出される突きと払い、ナイフが振るわれる度にひゅうひゅうと風が鳴った。ワッツはますます勢いづいて攻め立ててくる。  防戦一方のジャスミンに、隅で見守るデニスは気が気でない様子。だが彼女は依然落ち着きを払ってた。 「敵の弱点を突くのは、戦術における基本だ。そして君は相手の弱点を把握していた。本来なら、君は勝利を手にする資格があったのかもしれない。…………けど──」  いよいよジャスミンが動いた。魔杖でナイフの軌道を逸らし、ワッツを後方へと受け流す。  大きく体勢を崩したワッツは、勢い余って柵に激突した。 「例外はいつ如何なる状況でも発生するものなのさ。そしてボクは、君にとっての例外。接近戦もこなせない魔術師はいつまで経っても三流なのさ」  ジャスミンは魔杖を長く持った。槍術のように洗練された突きと払いを繰り出し、間合いの外側から一方的に反撃の猛攻を打ち込んでいく。得物の長さを活かすのだ。  攻守逆転。ワッツはジリジリと端に追い詰められていった。彼の顔にも焦りが見えた。  だがジャスミンは手を緩めない。それどころか新たな魔術を披露した。  魔杖を身体の周囲で勢いよく回転させながら牽制し、術式を詠唱する。そして一気に魔杖を振り薙いだ。  ワッツは間合いを見て回避を確信した。だが迫る杖の先端に冷気が錬成されると、硬質化した黒い氷が、刃のように魔杖に接着した。  それがワッツの目測を狂わせた。氷の刃は、届かなかったはずの間合いを埋めたのだ。  極低温の刃はどんな業物にも劣らず鋭利。三つ編みにしたワッツの髭を根もとから切り落とした。  その瞬間、ワッツは命の危機を感じた。そして、彼女に手心を加えられていた屈辱と、どう足掻いても彼女には敵わないのだという実力差を思い知った。 「ああ……。魔法が…………」  彼は既に戦意を喪失していた。頭のなかが真っ白だった。  魔杖の氷が溶け、新たな魔力の光が杖の先端に集う。  ジャスミンが杖を突き出すと、ごう、と大気を震わせる重低音とともに、衝撃波が放たれた。  強烈な一撃に、軽々と吹き飛ばされたワッツは、柵に叩きつけられた。  うなだれるワッツ。気を失ってしまったようだ。  ぶつかった勢いで変形した柵が、その魔法の威力を物語っている。  勝負はついた。  ジャスミンは、ふう、と、詰めていた息を吐き出した。  背後から、わざとらしい拍手が聞こえてきた。 「いやー、お見事! 鮮やかなお手並み! あんたはいい腕をしている。まるでムービースターみたいだったぜ。フー、アチョー、って、な!」  デニスは、運動神経を微塵も感じられないパンチとキックを披露した。 「魔術とは本来、魔法を最大限に活かすために編み出された近接戦闘技術のことさ。決して弱いものいじめの手段じゃないよ」  ジャスミンはデニスのほうを振り返る。 「さて、ボクは責務を果たした。あとは君がボクに支払いをする番だ」 「あ、あぁ……、そ、そうだな……」  デニスはばつが悪そうに目を逸らす。 「君はお金に苦心しているようだから、支払いは魔女流でいこう」 「なんだ? その、魔女流って?」 「古くから伝わる契約と取引の決算方法だよ。その人の『価値』で精算するのさ」 「価値?」 「例えば、時計を集めるのが趣味な人なら、契約内容に比例する価値の時計をいただく。そして、これは別に物である必要もない。もし仮に、君が料理人だとしよう。その場合、ボクが舌鼓を打てるようなとびきりの料理をもてなすことでも、価値は精算される」  デニスは、ほっと胸を撫で下ろす。同時に、彼がよからぬ悪巧みをしているのは、ジャスミンには見え透いていた。下らない言い訳を並べてうやむやにする気なのだ。  だから彼女は牽制をした。 「ただし、これには一つ条件がある。その人に、いったい何の価値を求めるかは、魔女が、つまりボクが決める」  デニスは絶句した。 「これなら、お金に苦心している君でも支払えるだろう?」 「そんなの、反則だろ! 適当言って高く吹っ掛けることだって、いくらだってできるじゃねえか!」 「理不尽は言わないと約束しよう。とりあえず君の家に案内してくれ。話はそれからだ。君がどんな暮らしをして、どんなことが生きがいなのか、まずはそれを知りたい。君が、何に『価値』を感じているのか、ね」  デニスはしばらく黙っていたのち、やや不満そうに返事をした。 「いいぜ、ついてこい。家はここから五分もしないところさ」  ジャスミンは、気絶したドワーフを一瞥したあと、デニスとともに屋上から去っていった。
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