プロローグ 運命の出会い

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プロローグ 運命の出会い

「お待ちどうさまー、ご注文の担々麺と水餃子、あと、こっちがオリエンテ風野菜炒めだよ」  まだ顔に幼さを残した少女は、いつものように、はつらつとした様子で接客をしていた。 「いつもありがとうね、ココちゃん」  ココと呼ばれた人狼の少女は、常連客のオリエンテ人夫妻に、にっこりと笑って返して、その場をあとにした。 「ココちゃん、今日は上がっていいわよ」  厨房の奥から店主のフェンが声をかける。  お昼の最も忙しい時間を過ぎ、店内の客もまばらになってきた。 「わかりましたー」  ココは帰り支度をはじめた。  彼女が働きはじめて半年になるフェンの店は、オリエンテ料理を専門とする、早い、安い、うまい、がモットーの料理店だった。  同じようなオリエンテ料理店が数多く存在するこの地区でも評判は特に良く、店は毎日繁盛していた。  職場は家からも近く、働いてる人も客もみんないい人ばかりなので、ココはこの職場に何の文句も抱いてはいなかった。  帰り支度を済ませ、多機能性ジャケットを羽織ったタイミングで、フェンが近付いてきた。 「ココちゃん、はい、いつもの」  ずっしりとした重さのある紙袋を手渡された。それを胸に抱えると、中からぼんやりと熱が伝わってくる。  ココは袋の中を確認した。 「……うわぁ、肉饅頭だ!」  真白い生地に包まれた肉饅頭は、まだ湯気が立っている。  彼女の作る肉饅頭は、他店のものと比べて一回り大きい。両手のひらほどもあるそのサイズと、惜しげもなくたっぷりと包まれた甘辛い味付けの肉と野菜の餡が売りだ。  一つ食べただけでお腹が膨れるそれが、紙袋のなかには六つも入っていた。  ココは、彼女の作る肉饅頭が大好きだった。尻尾もごきげんに左右に揺れてしまう。 「こんなにもらっていいの?」 「それと、こっちはお給料ね。いつも頑張ってくれてるからボーナス」  茶封筒には、普段の三、四割増しの額が入っている。 「いいの? なんだか、至れり尽くせりでバチが当たっちゃいそうだよー」 「誰にバチが当たるですって? ココちゃんほど健気に頑張っている子こそ、報われるべきなのよ」 「フェンさーん!」  フェンが客に呼ばれた。 「はーい、いま行きます! それじゃあね、気をつけて帰るんだよ。また、よろしく」 「はい、お疲れさまです、フェンさん!」  そこで二人は別れた。  このまま家に帰るのもつまらないな、と思ったココは、せっかくもらった肉饅頭を食べながら、適当に街をぶらつくことにした。  リトルオリエンテと呼ばれるこの地区は、その名のとおり、東洋(オリエンテ)人を中心に形成されたコミュニティで、建築物や看板の文字、装飾などの随所から異国情緒を感じられた。  だが、リトルオリエンテを抜けると、街並みはがらっと様相を変える。  競うように並び立つ高層ビル。頭上を覆う大小様々なネオンの看板。発達した交通網に、絶え間なく行き来する大量の自動車。道路の上には高架した歩道が展開されている。地上の歩道と繋がったそれは入り組んだ構造をしており、まるで迷路のようだった。  景観に趣はない。ただただ雑然としていた。  ふと、ココは、ショーウィンドウに映った自分の姿に目を止めた。肉饅頭をくわえたなんとも間抜けな姿だった。  小麦色の肌、くりっとした大きな瞳、母親譲りの明るい茶髪と二つにおろした三つ編み、ツンと生えた人狼特有の獣耳。そこにいたのは、どこにでもいるような、ごく平凡な人狼の少女だ。  ついさっき、街頭のスクリーンに流れた高級洋服ブランドの広告を見た影響からだろうか、ココは、モデルの真似をしてガラスの前でポーズを取ってみた。──が、まるで様になっていない。  所々が擦りきれたジャケットに、色あせたデニムパンツ。お気に入りのスニーカーだって履き潰れてしまっている。十六才にもなって化粧だってしたことがない。  誰もが羨むような華々しいモデルの姿とはまったくかけ離れていた自分に、ココは絶望した。  角度を変えたり、いろいろ試してみたが、結局ばかばかしくなってすぐにやめてしまった。  そのとき、ココと同年代の男女のグループが背後を通過した。  ココは振り返って彼女たちを見た。  化粧をして、素敵な服に身を包んだエルフの少女。年相応におしゃれを楽しみ、仲間たちと和気あいあいと過ごす姿はまさに、ココが憧れる青春のワンシーンだった。 「いいなあ……」  思わず心の声を吐露してしまう。  ココは学校に通ったことがなかった。生きるためにお金を稼ぐので毎日が精一杯だったから。  明日の試験はどうしよう、と少年少女は頭を悩ませる。  明日まで、これだけのお金でどう食い繋いでいこう、ココは頭を悩ませる。  両者の住む世界は、あまりにも違い過ぎるのだ。  毎日好きなものを好きなだけ食べられる生活をしてみたい。学校に通って、つまらない授業にうんざりして、たまには友だちとズル休みもしてみたい。  そんな当たり前の生活が、ココにとっては当たり前ではない。特別なことなのだ。それだけで贅沢なのだ。 ──わたしも、学校に通えていたら、あんなふうに友だちがいたのかな……?  視線の先、横を向いて、男友だちに笑顔を見せたエルフの少女に、ココは自分を重ねてみる。  ココの胸に羨望が(にじ)んだ。それと、少しばかりの嫉妬心も。浮き彫りになったのは、幼い頃から心を蝕む孤独感だけだった。  思い出のなかの母がやさしく微笑みかけてくる。もう二度と触れることは叶わないその温もりが恋しい。  油断したら、涙がこぼれてしまいそうだった。 ──どうしてわたしは、当たり前を享受できないのだろう? ──なぜ? どうして? なんでわたしだけ? こんな理不尽を受け入れなければいけないの?  ネガティブな感情が源泉のように止めどなく溢れ出す。  同年代の子どもたちを見ていると、そう思わずにはいられない。  わずか十六才の少女は、その場に立ち尽くしてしまった。  押しつけられた理不尽な人生に、もう怒る気すら生まれない。 ──どうせ無駄だとあきらめているから……。 ──わたしはきっと、これからもずっと、その日暮らしをして、最後は路地裏でひっそりと、誰にも看取られずに、孤独に死ぬのだ……。  いまは、その時が訪れるのを先伸ばしにしているだけ。  そう思わなければ生きてはいけない。ときにいたずらな楽観は、より残酷な現実に直面したときに、自分の心を苦しめるだけだ、と、少女は知っていた。  得も言われぬ不安が胸に込み上げてくる。  気分が悪くなったココは散策を切り上げ、足早に家路についた。  やや前傾ぎみに、目の前の地面だけを見て歩き続けた。耳からの情報も極力遮断した。楽しそうなこと、華やかなものには気付かない振りをして、できる限り家へと急いだ。  本通りを外れると、一気に人通りは減少した。湿った汚い路地を進んでいくと、ビルとビルの谷間に、半ば倒壊したあばら家が見えてきた。  人が住むにはあまりにも粗野な作り。雨風を凌げるだけ野ざらしでいるよりはマシという程度の我が家だ。  周囲には似たような家がたくさん並んでいる。ここには、ココのように、貧困にあえぐ者たちが多く暮らしているのだ。  ココは無言のまま、ただいま、と我が家に帰還を告げた。  どっと疲れが肩にのしかかる。  肉饅頭の入った袋を棚の上に置いた。  とてもじゃないが、美味しく食べてあげられるだけの心の余裕は、いまのココにはなかった。  軋みを上げる廊下を進んでいくと、リビングから知らない女の声がした。 「ルーブルさん、流石にそれは困るよぉ……」  女は苦言とは裏腹に、この状況を楽しんでいるような調子だ。  ココは気配を殺し、廊下から室内を覗いた。  わずかに開かれたドアのすき間から、へたり込んだ父に詰め寄る女の後ろ姿が見える。 ──まさか、新手の借金取りだろうか?  だが、そういった連中は、もっと粗野な風貌や言葉遣いをするものだ。彼女はもっと気品があって優雅さも備えていた。  女の携えた銀色の杖が目に留まる。 「あの杖……。まさか、魔術師?」 ──魔術師にまで借りを作るとは愚かな人……。  あんな父親に同情しているわけではないが、それでも心臓がきゅっと縮まるような思いをココは感じていた。 「ボランティアじゃないんだ。ボクだって生活がかかっているからね」 「ご、誤解だよ、ジャスミンさん。俺は女を悲しませるような真似は絶対にしない」 「へぇ じゃあ説明してもらおうか。君がもてなしに出したこの薄い味のお茶には、睡眠薬が入っていた。ボクがそれを飲んで眠ったのを確認すると、君はこっそり逃げ出そうとしていたね?」 「違うんだ、それは……それは、そ、そう、あんたが眠っちまったから、風邪をひかないように毛布を取りに行こうとしただけさ! 本当に本当だぜ!? 女神ディーバに誓って本当さ!」  (デニス)は口がよく回る男だ。そして人狼イチのクズだ。断言できる。  酒癖が悪く、女遊びとギャンブルがやめられない情けない男。それが災いして各地で借金を作り、多額の負債を抱えているのだ。  学校で勉学に勤める義務を放棄して、その返済を手伝っているのがココだった。  もっとも、ココが稼いだなけなしのお金で借金を返済したすぐそばから、この男は新しい借金を作ってくるのだが……。  ココに母親はいない。彼女が幼い頃に病死したのだ。母娘は深い絆で結ばれていた。母が娘を愛するのと同じように、娘もまた母を愛していた。  母は献身的な女性だった。娘のことを第一に考え生きていた。仕事の合間を縫っては、ココに勉強を教え、わがままにも付き合ってくれた。ココは、かけがえのない母の愛を享受する一方で、母の身を案じてもいた。  母はもともと気管支系の病を患っていた。だが、ココを育てるために昼夜問わず働いていたのだ。  時折、母が苦しそうに咳をする度に、ココは、 「大丈夫……?」  と、声をかけた。  すると母は微かに笑って、 「あなたはやさしい子ね」  と、頭を撫でてくれるのだ。  母はけっして弱音を吐かなかった。だからココは安心してしまった。 ──ママは絶対に、わたしを置き去りにしてどこかへ消えたりするはずがないのだと錯覚してしまったのだ。そんな確証なんてあるはずもないのに……。  別れは突然だった。何の前触れもなくその時は訪れた。弱った身体を酷使して無理がたたり、母はついに身体を壊して倒れたのだ。  そして入院してから間を置かずして、母は呆気なく死んでしまった。  耐え難い悲劇だった。底知れない不安と慟哭が渦を巻いて幼いココに襲いかかった。胸が張り裂けそうだった。自ら命を絶つことすら考えた。それでも思い留まれたのは、母の背中を、必死に生きようともがく母の姿を見てきたからだ。母の死を無駄にしたくはなかった。  なのに、母が命を引き取ったその瞬間ですら、父は病院に姿を現さなかった。きっとどこかでギャンブルにでも興じていたのだ。  父が病院に駆けつけたのは、母が冷たくなってしばらく経った後。ココは目もとを赤く腫らしながら、母の亡き骸に寄り添うようにして、膝を抱えていた。  最愛の人の死を前にしてなお、涙ひとつ流さなかった父を冷ややかに睨みつけるココの瞳は、もう無力な少女のものではない。とうに涙は枯れていた。  母を失った悲しみは、父に対する怒りに変わっていたのだ。  それは成長した今も変わっていない。意地が、怒りだけが、ココを今日まで生かし続けてきたのだ。  あの男の口から吐かれる言葉はどれをとっても信用に足らない。娘のココが一番理解している。  それは彼と相対する魔女も承知しているようだった。  テックウェア姿の魔女は、あきれた、と言わんばかりに肩をすくめてみせる。 「百歩譲って、ボクを騙そうとするのは許してあげるよ。けど、契約を反故にするのは言語道断だね。命をもって償うに値するよ」 ──殺すの? パパを!?  ココは大いに困惑した。衝撃のあまり、思わず後ずさってしまった。  そのとき、廊下の床が軋み大きく音を立てた。  ココが、しまった、と思ったときにはもう遅かった。
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