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デニスの人生は嘘の積み重ねによって成り立っていた。だが築き上げたものが崩れるのは一瞬だ。だから嘘に嘘を重ねてきた。嘘が嘘だと見破られないように。
得意の舌先三寸で、その場しのぎを繰り返し、借金取りから逃げおおせてきた。だがそれも、限界が目前にまで迫っていた。
流石に今回ばかりは相手が悪かったようだ。
浅はかにもデニスは、自慢の口先だけで魔術師を出し抜けると思っていたのだから。
──床が軋む音。
廊下に人の気配がした。
ジャスミンは振り返った。
「誰かな、そこにいるのは?」
彼女が目を離したその一瞬、デニスはジャスミンを押しのけて逃走した。
「性懲りもないねえ、君は……」
ジャスミンは杖を軽く振い、天使の光輪にも似た銀色に輝く輪っかを投擲した。
追いついた輪っかがデニスの足を絡めとり、彼はダイニングテーブルを巻き込んで盛大にすっ転んだ。
ジャスミンが放ったのは非殺傷の魔法、〈拘束輪〉だった。
ただならぬ騒音を聞き、ココは部屋に飛び込んだ。
「パパっ!!」
考えるよりも先に身体が動いていたのだ。
芋虫のように横たわる父との間に割って入ったココに、ジャスミンはわざとらしく驚いてみせた。
「おや、おやおや……」
人狼の少女は勇猛果敢。魔女をキツく睨みつけ、両手を広げて立ちはだかる。
「これ以上パパを苛めるな!」
「ルーブルさん、この娘が君の娘さんかい?」
「あぁ、ココ、俺の愛娘……!」
デニスは娘の背後にみっともなくすがった。ココはしれっとその手を振りほどく。
「愛娘……? 愛娘!?」
彼の何気ない一言が、ココの中でくすぶり続けていた怒りに火を付けた。そして火山のごとく一気に噴火した。
「この嘘を吐き!」
「そんなこたぁない、パパはいつだってお前を愛してる」
「パパは、二人で生きていこう、って言った。でも真っ赤な嘘だった!! わたしはいつだって独りだ!!」
ジャスミンをそっちのけにはじまった父娘喧嘩に、彼女は困惑してしまう。
「じゃあ、ママが死んだあの日、パパは何してた!? 病院にも来ないで、どこで何してた!?」
「そ、それは……」
「それだけじゃない、誕生日プレゼントなんてもらったことない。髪だっていつもひとりで解かしてる。化粧も、おしゃれも、今なにが流行っているのかだってわからない。学校にだって通わせてもらったことがない!」
デニスは言葉を失った。
「パパだって大変なんだ、ってわかってる。何も言わずに我慢してきた。でも、わたしはもっと大変なんだ! なのに、愛してる娘を働かせて、パパは本当に、お前を愛してる、って言えるの!? ねえ、パパ!?」
ココはジャケットにしまっていた給料袋を、父親に叩きつけた。その勢いでお札が宙を舞った。
ココの目には涙が浮かんでいた。それを流すまいと、彼女は必死にこらえている。
「ご、ごめんよ、全部父さんが悪いんだ……」
流石のデニスも、娘の涙を見て、何かを言ってごまかそうという気は起きなかったらしい。
「そんなふうにお金を粗末に扱ってはダメだ。それは君が稼いだお金でしょう?」
ジャスミンは穏やかに諭したつもりだったが、結果、彼女の神経を逆なでしていた。
ココはジャスミンを睨みつけた。
「なら、どうしようとわたしの勝手でしょ!?
もう、いいです。そのお金あげます。そんなに欲しいのなら、勝手に拾って持っていけばいい!」
ジャスミンは、ココの脇をすり抜け、おもむろに散乱した紙幣を拾いはじめた。
その姿を見て、ココの胸に疑問がぽつりと浮かび上がってくる。
──いったい、お金の『価値』とは何なのだろう……。
ココたちにとってお金は命綱だ。食べ物を買うための『価値』なのだ。
でも、この魔女にとってのお金は、きっとココたちと同様の価値は持ちあわせていない。
見たところ、お金に困窮し、差し迫っている様子はない。だがそういう人のほうがより多くのお金を求めるものだ。貧乏人以上に飢えていると言ってもいい。
そういう人たちの姿を見ると、ココはとたんに空しくなるのだ。
「本当に拾うんだ……最低ですね……。血も涙もない人。弱いものから、なけなしのコイン一枚すらも奪おうとしている」
ココは怒りを通り越して、もはやあきれていた。
「同情を求められても困る。ボクに感情はない。はく奪されてるからね」
「感情? 何を言っているの……?」
ジャスミンは独特の雰囲気をまとっていた。良く言えば神秘的。悪く言ってしまえば人間味が感じられなかった。淡々としていて、熱が感じられない。それに加えて、飄々とした態度が彼女の胡散臭さをますます際立たせている。
魔術師とは、みんな彼女のように捉えどころのない人ばかりなのだろうか。
お金を拾い終えたジャスミンはピタリと動きを止めた。しばらく考える素振りを見せてからお金をデニスの脇に置き、彼女は立ち上がった。
「よし、決めた!」
ジャスミンが、ココのほうを振り返る。
「何を?」
「仕事の報酬だよ。つまり『価値』だ!」
「もう私たちに払えるものはないって言ってるでしょ!?」
「ルーブルさん、何をいただくかやっと決まったよ」
「わざわざ言うなよ、俺に拒否権なんざねえんだろ……?」
デニスの声は疲弊しきっていた。
「お嬢さん、君は、もう自分に支払えるものはないと言った。──けど、本当かい? 人には必ず価値が存在するものさ」
「嘘……」
「本当さ。ボク言うんだ、間違いない」
ココは怒りに身体を震わせた。
「なら、わたしの価値は何!? わたしは何の為に生きてるの!? みじめに奪われるばかりで!? こんなんじゃまるで、わたし……わたし!!…………」
──奴隷と変わらない。
どうしても、のどに詰まったその言葉を口にすることはできなかった。
──認めたくないのだ。
言ってしまえば、本当になってしまいそうだったから。
ココはその場に崩れ落ちた。大粒の涙が床にこぼれ落ちる。自分の意図に反して、涙が滝のように溢れた。
悔しかった、許せなかった。それが誰に対するものなのかも定かではない。
ただ、この行き場のない激情を制御しきれなかった。
──わたしの価値とは何なのだろう。生きるだけの価値がわたしにはあるのだろうか?
ココは生きる意味を失いかけていた。それはまさに風前の灯。だが、その火を絶やさぬよう、そっと包み込んだのは目の前にいる魔女だった。
「人の価値とは、得てして自分自身だけで理解できるものではない。他者からもたらされてはじめて知ることができるんだよ。もしそれを、自身だけで決められたとしたら、それはただの思い上がりでしかない。
だから、ボクが君に価値を付けてあげよう」
「えっ?」
ジャスミンはココの手を下からそっと取った。その手は艶やかで、氷のように冷たい。そして彼女は跪き、穏やかな微笑をたたえて囁くのだ。
──君、ボクの花嫁になりなさい。
その瞬間、周囲から音という音がすべて消え去っていた。水道の蛇口から滴る水の音も、近くの建物で工事をする騒音すらも聞こえない。
訪れた静ひつに、人狼の少女と羊人の魔女は、時間さえも奪われてしまったかのように固まっていた。
一瞬とも、永遠とも思えるような時間が流れた。
見つめてくる紫水晶の瞳が、ココの平静を乱す。向けられた魔女の眼差しが返事を待っている。
「…………へ?」
だが、当惑するココの口から漏れたのは、意味すら成さない言葉の切れはし。
聞き間違いをしたのかもしれない。ココは自身の耳を疑った。あるいは魔女が言い間違いをしただけなのかもしれない。ココは混乱していた。
もはやココは、正常な思考などできなくなっていた。
そして、やっとの思いで魔女の言葉を理解したのは、もっと後のことだった。
──わたしは求愛されたのだ。この変わり者の魔女に……。
彼女の言葉は、冬の朝、窓から差し込む日の光のようにあたたかく、そして希望に満ちあふれていた。
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