chapter.1 グレーゾーン

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 ブラックウォーターにおける公共の交通手段は、バスやタクシー、鉄道、運河を行き交う渡し船、モノレールなど多岐にわたる。  だが、それらの多くの手段をもってしても、朝の通勤時間は混沌と呼ぶに相応しい混雑具合を見せる。  それは今ココたちが乗車している地下鉄も例外ではない。  電車内は通勤する会社員たちですし詰め状態だった。  ココたちは、多数の大企業本社が所在するビジネス街〈キャピタル〉へと向かっていた。キャピタルはムーンベイの対岸、運河を挟んだ埋め立て地に位置している。  座席に座るココは、緊張で表情が強張っていた。何を隠そう人生ではじめて乗った電車なのだ。改札の通り方はもちろん、切符の買い方すらも彼女は知らなかった。全部ジャスミンが教えてくれた。  人生初の電車にウキウキしたのも束の間、時間が時間ということもあり、駅内は大渦のように人が入り乱れ、四方八方から押し寄せる通勤客の波にココは翻弄されっぱなしだった。彼女はジャスミンの腕にしがみつき、はぐれないようにするので精一杯だったのだ。  ココは目の前に立っているジャスミンを絶対に見失ってはならないのだと、全神経を集中させていた。  顔を上げると微笑をたたえるジャスミンと目が合った。  ココはばつが悪くなって目を逸らした。 ──君、ボクの花嫁になりなよ。  その言葉の真意はどこにあるのか。  先日の彼女の告白を思い出すと、羞恥(しゅうち)のあまり全身が熱くなる。  正直なところ、ココは、ジャスミンが何を考えているのかまったく理解できなかった。  自分はつまるところ、ジャスミンが父から取った担保と言うべき存在だ。人質なのだ。  それを彼女は『花嫁』などと飾った言葉でおだててくる。 ──でも、悪い人ではない……と思う。  今ココが着ている服も、ジャスミンがくれた新品で、お代はいらないと言われた。 ──普通人質にここまでするだろうか? ──まさか、本当にわたしと結婚を!? ──いや、見ず知らずの女に、そんな大それた真似をされてたまるものか。 ──油断を誘っているだけかも。警戒は解くな。隙は見せるな、ココ《わたし》!  ココは一人で悶々としていた。  すると、ジャスミンが、とんとんと肩を叩いてくる。 「窓の外を見てごらん」 「窓?」  言われたとおりに窓の外を見ると、そこには暗闇に反射した自分の顔があった。──が、突然、まぶしい白一色に染まった。  電車が地上に出たのだ。  徐々に光にも目が慣れてきた。ココは目の前に広がった光景を見て、あっ、と、息をのんだ。  そこには海が広がっていた。朝日を浴び、一面銀砂を散りばめたようにきらきらと輝いている。  心が洗われるような景色だった。  閉塞感しか感じられないこの街にも、まだ美しい景色はあったのだ、と。そして何より、景色を見て、美しいと思えるだけの心が自分にはまだ残っていたのだと安心した。  ジャスミンが顔を寄せてきた。 「いい眺めだよね。まだこの街も捨てたものじゃないということさ」  ジャスミンのおかげで、いくぶん落ち着きを取り戻した。彼女に言われるまで、緊張でガチガチだったココに、外の風景を見る余裕なんてなかったのだから。  彼女の何気ない気遣いがありがたい。  こういう態度がココの心を惑わせるのだ。 「ジャスミンさん」 「ジャスミンでいいよ」 「ありがとう、ジャスミン。わたしの緊張をほぐそうとしてくれたんでしょ?」  ジャスミンは、ひょい、と肩をすくめて見せる。 「さあ、どうだろうね? もしボクが本当に気づかい上手な人間だったら、独り寂しく探偵業なんてやっていないさ。  周りを見てごらん、この素晴らしい日常の光景を堪能(たんのう)しているのはボクたちだけだ。独り占めだよ? なんだかいい気分だと思わない?」  彼女の言うとおり、他の乗客は景色を楽しんでいる様子はない。  新聞を読んだり、俯いて目を休めていたり、外を見ていてもその瞳には何も映っていないのだ。  それは彼らにとって、毎日繰り返し見せられる風景だから見飽きてしまっただけなのか。それとも、身も心も疲弊しきっているがために、景色を楽しむ余裕がないのか。どちらにせよ、ココに言わせてみれば、もったいない話だった。
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