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俺は歩いていた。どこまでも続く森の中を、一人で懸命にもがきながら。
辺りは暗かった。夜だからだろうか。空には満月が浮かんでいた。月明りに照らされた自然の世界は青く染まり、海底を思わせた。
息苦しく感じるのはそのせいかもしれない。いっそのこと自分が愛したこの場所で、溺れ死んでしまえたならどんなに楽か。
「いや違う」
俺は頭を振った。
自分を変えるんだ。周りのことなど気にするな。自分が何者であるかを決めるのは、他でもない俺自身なんだから。
「そのために俺はここに――」
ふと足を止めた。
「ここに……何しにきたんだっけ?」
腕を組み、首を傾げたその時だった。
『おーい』
声がした。俺は辺りを見渡す。
『おーい』
人影が木の裏に隠れるのが見えた。俺は歩み寄り、呼びかける。
「そこにいるのか?」
誰もいなかった。名も知らない一輪のハート型の花が揺れているだけだった。
『おーい、おーいってば』
今度は真後ろの茂みに誰かが潜む気配。
「今度こそ……」
覗き込んで肩を落とす俺の前で、鋭いトゲに覆われた植物が佇んでいる。
『おーい』
俺はツタを払い、
『おーい』
枝を掻き分け、
『おーい』
木に登ったが、結果は同じだった。人の姿を追い求めた先に待ち受けていたのは、全て物言わぬ植物だった。
『おーい』
俺は頭を抱え、強く目を瞑った。
『おーい』
「頼む、やめてくれ」
『おーい、おーいってば』
「頼むから……」
『おーいおーいおーいおーいおーいおーいおーいおーいおーいおーいおーいおーい』
「悪い夢なら覚めてくれ!」
謎の声が止んだ。
俺は瞼を恐るおそる上げた。
目に飛び込んできたのは真っ白な天井だった。自分がベッドに横たわっていることに気がつき、俺は身を起こす。何度か瞬きをしたあと、俺はゆっくりと周りに視線を巡らした。
真四角な机にパイプ椅子。同じ形の本が並べられた本棚。いつの間にか俺は、全てがシンプルに統一された部屋にいた。
「ここはどこだ……?」
「事務所さ。良かった、目が覚めたんだね」
隣に目をやると、黒縁眼鏡をかけた面長の男が柔和な笑みを浮かべていた。
「随分うなされてたから、起こしてあげようと思ってずっと呼びかけてたんだ、でも」
男はバツが悪そうに頭を掻く。
「余計なことしちゃったかな。凄い汗だけど、大丈夫?」
手渡されたタオルを受け取りながら、俺は訊ねた。
「あの、あなたは?」
「ごめん、自己紹介が遅れたね。僕はここの植物園の園長を務める守カイジだよ。改めてよろしくね」
守の言葉に、俺は慌てて頭を下げた。
「す、すみません! まさか園長だったとは! 俺、実は今日バイトの面接でここに」
「やっぱりそっかぁ、君が電話をくれた――えっと」
「森山樹です!」
「ごめんごめん、森山くんね」
「いや、謝らなければいけないのは俺の……じゃなくて、僕の方です。すみません、初日からとんだご迷惑を」
恐縮する俺に、守は片手を振った。
「別に俺で良いよ、そんなに畏まらないで。それに具合が悪かったんでしょ? 尚さら仕方なかったじゃない」
微笑む守に、緊張の糸がほぐれていく。
何て良い人なんだ。こんな人格者が上司なら、部下はさぞかしやりやすいだろうな。
「でも本当にびっくりしたよ、君、温室の入口で倒れてたんだよ」
「え、温室の外ですか? 中でなくて?」
「うん、そうだけど……」
俺は眉根を寄せた。確かに俺は温室の中に入ったはずだ。それなのに、なぜ?
顎に手をやり俯く俺の背中を、守は軽く叩いた。
「まぁ、でも森山くんはラッキーだったよ。たまたま通りかかったうちのスタッフが、君をここまで運んでくれたんだよ」
俺は顔を上げた。
「そうだったんですか……ちょっと待って下さい。まさかそれ、お一人でですか?」
頷く守に、思わず声が大きくなる。
「俺、こう見えて体重80キログラムあるんですよ! そんな俺をどうやって」
「確かに森山くん、ガッシリしてるもんねぇ、でもうちのスタッフはもっと力持ちなんだ」
俺は生唾を飲み込んだ。一体、どんな怪力の持ち主なんだ。やはり植物園の仕事も、タフでなければ務まらないということか。
「森山くんさては今、うちのスタッフのこと、どんな怪物なんだよ! って思った?」
黙り込む俺を見て、守は吹き出した。
「図星なんだ! まぁ、誰かって初めはそう思うよね!」
ひとしきり腹を抱えていたあと、涙を拭きながら守は腰を上げた。
「良かったら今から会いにいく?」
俺は上目遣いに守を見た。
「え、誰にですか?」
「決まってるじゃないか、うちのスタッフだよ。だって」
一呼吸置き、守は付け加える。
「森山くんはこれから、我が植物園の一員になるんだからさ」
俺は目を見開いた。
「え、でも、面接は」
「合格だよ」
すかさず守は口を挟む。
「君は認められた。だから助けられたんだ」
守は俺の目を見据えた。
「さぁ、君の新たな同僚達に会いに行こうか」
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