甘くて、あまい

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ふたたびタイピング音が響き出す。俺もキーボードに指を乗せたがどうにも作業が進まない。 「何で転職することにしたんだ?」  返事がない。 「……あ、ごめん。別に詮索してるわけじゃなくて……俺も転職を考えてるんだけど、なかなか踏ん切りがつかなくてさ」  はっきり言って興味本位なのだが、心にも無い言い訳ががすらすら出てきた。この会社は残業が多くてしんどいと思うことはあるが、それに見合う給料は貰っているしプログラマーとしてのスキルは上がっているので、俺としてはまだ辞める時期ではないと考えている。 「まあ、色々あるんだけど」  高速でタイピングを続けながら中川が抑揚のない声で答えた。 「一番の理由は振られたってことかな……」 「えっ」  俺は頓狂な声を上げてしまいすぐに後悔した。間抜けな声を出してしまって、中川は気を悪くしたに違いない……と背中をちらりと見たものの、当たり前だが何の感情も窺えなかった。  それにしても相手は誰なのか。もしかして俺が仲良くしている女子かもしれない。それなら俺とふたりだけで飲みに行きたかったというのも辻褄が合う。話を聴いてやればよかったな。でも、振られたということは、何かしらアプローチしたということか。 「まあそもそも何もしてないけど。あまりに脈なさげだから」 「そっか」  俺はすこしお節介なことを言ってみた。 「でもさあ、脈あるかどうかなんて見た目の雰囲気だけじゃわからないし、今からでも告ってみたらどうよ?」 「いや……さすがにもう」  気乗りしない様子の中川に、俺は畳み掛けた。 「あと数日で会社来なくなるんだろ?だったら盛大に振られてもいいじゃん」 「……まあ、確かにね」  中川の声は相変わらず感情が読めなかった。  俺たちは無言で作業に集中した。あれこれ訊きすぎてしまったかなと俺は後悔した。中川はもう会社を去る決心をしているのだから、部外者がお節介を焼くものじゃない。  しばらくして中川が立ち上がって後片付けを始める気配を感じた。俺の方は全然終わりそうにないが、もう帰らないと完徹になってしまう。俺も慌ててパソコンをシャットダウンして鞄にスマホとハンカチを放り込んだ。  中川はジャケットを羽織り、きっちりネクタイを締めて俺を待っている。 「悪い、もう出るよな」 「ああ」  中川は硬い表情で俺を見た。 「ちょっと……」 「ん?」  また沈黙。どうしたんだよ急に。 「キス……してもいいか?」   こいつは何を言ってるんだ?と思ったのもつかの間、頭の中でパズルのピースが次々とはまっていった。  そういうことか。  中川は蒼ざめながらしかし視線は逸らさない。目元がすこし潤んでいるのは緊張しているせいなのか。 「えーと」  俺は返事に困ってしまった。納得はしたけれど受け入れるかどうかは別の話だ。めちゃくちゃ嫌悪感があるわけではないが、男を好きになるとか男に好かれるとか、考えたこともなかった状況だ。でも、頭ごなしに拒絶するのはなんだか悪いというか…… 「俺はもういなくなるんだから、いいだろ?事故に遭ったと思って、忘れてくれて構わない」  なんだか自虐的だけどそういう考え方もあるか。 「まあキスだけなら……」  してもいいと心から思っているわけではないが、中川がいじらしくなってきたのが半分、この状況から早く逃げ出したい思いが半分だった。 「目つむってればすぐ終わる。好きな子のことでも考えてろよ」   そう言われても最近恋してないんだよなあ……と少し悲しくなっているうちに、唇に柔らかいものが押し付けられる。  かき氷のにおい。  俺はぼんやりとされるがままになっていた。たっぷり10秒ほどは密着していただろう。  ぐずぐずに溶けた氷とシロップの混ざったものを飲み干したときの、甘さがすこし薄まった、でも愛おしいような味。  ぼんやりしているうちに中川が離れていく気配がして、俺はおそるおそる目を開いた。 「タクシー呼ぶから」  素早く背中を向けると中川はスマホを操作し始める。深夜とはいえ、流しのタクシーがすぐ捕まるだろう。  俺は中川に気付かれないように、唇に手をやった。  事故に遭ったなんてものじゃない。とんでもないものに遭遇してしまった気がする。  俺は平静を装ったままで、彼と一緒にタクシーに乗っていられるのだろうか? おわり
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