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拒まれても嫌だけど
教室から出るといっきにじめっとした暑さがまとわりつく。もう春は終わり、夏に入ろうとしていた。
「あちー。汗かきたくねぇー」
「もう夏だね」
蝉の声が聞こえてきそうな程の暑さ。少しでも紛らわそうとシャツの裾を持ち、パタパタと空気を入れる。以前から好きなブランドのこのシャツは広尾に貰った物だ。食事会の帰りに家まで送ったお礼ということだった。
デザインも気に入っているし広尾から貰った大切な物。だから汗で汚したくなかった。
「そういえばもうすぐ夏休みだな。レポート片付けてる?」
「俺はレポートは二つだけであとはテスト」
「レポートも溜まるとキツイけどテストもなぁ」
「……夏休みか」
少し暗くなった声。ハッとして動かしていた手を止める。俺は今にでも入って欲しいくらい夏休みを楽しみにしているが、中にはそうじゃない人もいるだろう。
違う話題に変えるため必死に頭を働かせる。しかし広尾が続けた言葉で俺は脱力した。
「夏休みはバイトでしか日高に会えない……」
「……なんだ、そういうことか」
「バイト来るよね?」
「おー、少し希望増やした」
「良かった……」
心底ホッとしたように息を吐く広尾。夏休みの楽しみより俺と会えない寂しさの方が強かったのだと知ると、照れくさく、胸に小さな痛みが走る。気づけば俺は思いついた事を口にしていた。
「あのさ……毎年行ってる花火大会あるんだけど、行く?」
声に出してから断られたらどうしようと怖くなった。心音をうるさくしながら隣を窺う。一瞬固まった広尾は俺を凝視した。
「行く。浴衣で行こ。待ち合わせどこにする?」
「はえーから」
「浴衣持ってなければ俺渡すよ」
「いやいいよ、家にあるし」
断られなかったことに安堵する。あきらかにはしゃいでいる広尾の様子に思わず笑ってしまった。
「楽しみだね、夏休み」
「……おう」
さっきまでの寂しげな空気は消え去っている。ひとつ増えた夏の予定は特別で、当日まで俺の胸を高鳴らせた。
「じゃーん。どう、ここ。いい感じじゃね?」
屋台も人混みも遠く、静けさが満ちる高台。数本の街頭とベンチが置いてあるここは最近知った穴場だ。花火大会の会場からは少し遠いが、人気もなく、落ち着いて花火を楽しめそうだった。
「うん。ここなら、ふたりきりで花火を見られるね」
「お、おー」
ふたりきり。確かに俺らの他に人はいないから広尾の言う通りだ。しかしそれを実感すると、今更ながら顔が火照ってきた。もしかして広尾はずっとふたりきりを意識していたのだろうか。
「浴衣、似合ってるね」
「……さんきゅ。広尾も、威力たけぇな」
「威力?」
首を傾げる広尾。その体はグレーの浴衣を纏っていた。駅から歩いてくる途中何人が振り返ったかわからない。いつも通り、いや、いつも以上に広尾の整った顔が際立ち目立っていた。
「花火、楽しみだな」
「うん。でも、始まったら終わっちゃうね」
「……まぁなー」
始まる前から終わることを考えているのかと思ったが、寂しそうな声に何も言えなくなる。俺も約束した時からずっとこの日を楽しみにしていたから広尾の寂しさもわかった。
あと少しで打ち上げが始まる。ふたり並んで花火を眺めて、終わったら駅まで歩いて、すぐに別れることになる。
「日高」
寂しさに襲われていた俺の指先に熱が触れる。そのまま長い指がそっと絡まった。
声に導かれるように広尾を見る。怖いくらいに真剣な目が俺を貫いた。身動きがとれず、呼吸も浅くなる。
空いている方の手が俺の頬にそえられる。あ、と思った。このまま動かなければ、きっと広尾に飲み込まれる。動かなきゃ、何か話さなきゃと思うのに、考えることもやめてすべて身を任せたい欲求にかられる。
このまま体を近づかせて、そして──。
「……っ」
ドン。地鳴りのような音が鳴る。広尾の瞳に鮮やかな光が浮かんだ。夜とは思えないほど明るく照らされる。
頬にあった手がぎこちなく離れていく。まだ鈍い頭の片隅で、名残惜しく思った。どちらともなく俯き、気まずさが漂う。
「……拒まれても嫌だけど、どこまでも許してもらえる優しさも、辛いよ」
「広尾……」
「ごめん、なんでもない」
こぼされた広尾の本音。俺はまた何も言えずに黙る。答えが出るまで考えさせて欲しいと言ったのに、ハッキリしないで曖昧だった俺。知らず知らず広尾を追い詰めていたのかと思うと、自分を殴りたくなった。
こうやって後悔しているのも、きっと自分勝手なのだろう。あんなに楽しみにしていた花火も見ずに、俺はただ、後悔と情けなさに拳を握った。
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