一、ハバネラ(恋は野の鳥)

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 私も決して詳しい方ではないのだが、ミュージカルのファンは女性の方が多いという印象があったので少し意外だ。  特に何かあるわけではないが、なんとなく記憶しておく。  堀くんが丸い顔に眼鏡を食い込ませながら独り言みたいにつぶやいた。 「僕って言ってましたよね、あいつ」 「え。ああ、そうだったわね」  それがどうかしたのかと目を向けた私に、廊下に革靴で一歩踏み出した堀くんが振り返って力強く言った。 「いいトシして僕なんて言うやつはもれなくマザコンです。少なくとも、俺の周りでは百パーセントの確率で!」  およそ心理職とは思えないその発言に無表情で部屋の鍵を回していた法務センターの職員の肩が小刻みに震えた。 「なるほど。ますます女の敵ってことね。とんでもないヤツみたいね、万堂哲人」 「間違いないですね! マザコン、有罪!」  キリリと言い切った堀くんの言葉に、とうとう職員がブッと吹き出し、私たちの場違いな笑い声がセンターの無駄に真っ白い廊下に響き渡った。  外の植え込みではそろそろ盛りを過ぎた紫陽花が色を失って立ち枯れ始めている。  梅雨明けの正式発表はまだだが、ここのところ三日ほど、首都圏に雨は降っていない。  夏が来るのだ。  日本の高温で多湿なあの季節が。
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