一、ハバネラ(恋は野の鳥)

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「ではこれは?」 「ううーん。色のついたインクのしみだけど……そうだなあ、しいて、言えば」  矢のような視線が私の眉間を貫く。  私が見ているのと同じように、彼もまた、見ている。  私の反応を。 「この赤いのは処女膜、ですよねえ」  夢みるように、歌うような口ぶりで続ける。 「飢えた狼に無残に食い破られた、かわいそうな女の子の処女膜。血が流れても叫び声は誰にも聞こえはしないだろう」 「なぜ?」 「その叫びが沈黙に呑まれるから」  薄い唇にすうっと自分の細い指先を這わせて、ねっとりと笑う。 「群衆は沈黙する。戦う者の列は葬列にしかならず、波紋はそこで折り返す。弱者の歌になんて何の価値もない。鼓動のドラムは聴こえやしない。革命はどうせ、失敗だ。だって、そうでしょう? 僕は、弱者だ」  レ・ミゼラブルの民衆の歌? 移送されてきた日に一晩じゅう歌っていたというのは、この歌のことなのか。  まばたきの少ない爬虫類の目の奥にくっきりと笑みが浮かび上がる。  あざとさをまとった濃厚な空気が部屋に満ちてビリビリしている。  試験というよりはポーカーに近いと感じた。  そうまでして、読まれたくないものがこの男にはあるのだと直感した。  精神科医としての私の、直感。
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