二、私のお母さん

29/112
前へ
/354ページ
次へ
 ギギッと堀くんの椅子が鳴る。  のけぞって、代わり映えのしない天井でも見つめているのか。  私は堀くんが白目を剥いているのを想像した。 「私は美術がダメだったわね。絵が全然描けなくて、普通に描いてるつもりなのに前衛芸術みたいになっちゃうのよ。なんなのかしらね、あれ。今でも不思議なんだけど」 「芸術が爆発ってやつですね! 俺は運動がダメだったなあ。逆上がりとか、何度やっても上がらないんですよね。一週間居残りさせられましたけど、無理だったんで最後は教師が諦めましたよ」  あはは、と紙束の山が声を上げて笑ったように見える。 「誰にだって何かしら一つは苦手科目があるものよね。それが、普通。でも万堂は違った。普通じゃないのよ」 「でも出来すぎるからって普通は犯罪者には、なりませんよね」 「で、これ見て。中学の要録」 「どれどれ」  またレポートの向こうにコピーが消えていった。 「え? これ本当に万堂の記録ですか?」  ガタンと音を立てて立ち上がってようやく見えた堀くんの目玉が眼鏡越しにまんまるに見開かれている。 「間違いないと思うけどね」  まるで別人のように成績が落ちて、出欠にも乱れが生じている。 「だとすると……中学で何かあったということですか?」 「そう。何かが」  出来すぎるほど出来た模範児童に一体何があったというのか。  指導要録からそこまでは読み取れなかった。  でもきっとここに糸口がある。  私の精神科医としての蓄積した経験が、クツクツと喉の奥を鳴らした。  堀くんが立ったまま、気味悪そうにあるいは気の毒そうに、私を見下ろしていたけど湧き上がる笑いを止める術はなかった。
/354ページ

最初のコメントを投稿しよう!

60人が本棚に入れています
本棚に追加