黙っているのは理由がある

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専門士業を営んでいることから、古い戸籍を目にする機会が多いのです。 私は、この本業を20年以上続けています。 数年前に守秘義務規定が出来て、職務上知り得たことを、他に洩らすうなマネはしませんが、この件ばかりは、黙っていられない気分です。 祖母の話だから、身内の恥だと思って、聞き流してくれれば幸いです。 いま、私の目の前には、祖母の戸籍があります。 祖母が何も語らずに逝ったので、記 載から想像する しかないのですが、その記載はいかにも不自然です。 葬儀に集まった親戚一同、困惑してしまっている一部始終を、ここに語り残しておきたいと思います。 祖父の野村毅の戸籍の記載によると、祖母の時江は、大正14年、曽祖父矢嶋仁平の次女として生まれ、昭和18年6月に下田泰士なる人物に嫁ぎ、昭和19年3月に長男の富雄を生んでいます。 が、乳呑み子を抱えた同年4月に急に下田氏と離婚し、 1年も経たない昭和20年3月に、祖父と再婚し、富雄とは父親違いの、私の母である敬子が、昭和22年2月に生まれています。 富雄と敬子の他に、祖父の連れ子の伯父と伯母が一人ずつ。 敬子が嫁いで生んだ、第2子長男が私というわけです。 公式な記録ではこうですが、記録では、そこに至る人の機微まではわかりません。 結局、記録は事実の断片に過ぎません。 そこに至る経緯に何があったのか?祖母が沈黙を守ったため詳しくはわかりませんが、当時を知る幾人かに聞き取りも行い、私なりに調べてみた結果、以下のことが分かりました。 祖父も下田泰士 氏も同じ村の出身であること。 二人ともとっくに鬼籍に入っていること。 下田氏が戦時中、航空兵としてインパール作戦に従軍したこと。 祖父が、妻に先立たれ、やもめ暮らしだったこと。 10も歳上の祖父に請われて、祖母は嫁いだこと。 下田氏が、紆余曲折を経て、無事に復員したことなどです。 調べれば調べるほど、数奇な運命に翻弄された若者たちとしか思えないのです。 下田氏が参加したインパール作戦とは、インド各地に展開しているイギリス軍を駆逐するのを目的として、日本陸軍の牟田口廉也中将率いる第15軍が、ジャングルを越えて長駆ビルマからインドのインパールを目指した作戦で、その補給を完全に無視したやり方は、膨大な餓死者を生み、インパールへ続く道は餓死者で埋まり白骨街道と呼ばれるに至り、今では二十世紀における愚挙の一つに数えられています。 下田氏は、第5航空師団を構成する、飛行第64戦隊(いわゆる加藤隼戦闘隊)の要員として、この作戦の航空支援に参加していました。 下田氏は二飛曹として活躍しましたが、作戦開始の2ヶ月後の5月22日、乗機の故障・発火により、コックスバザー南東という所でパラシュート降下してイギリス軍に捕まり、インドのビネカール捕虜収容所で終戦を迎えました。 下田氏は、下田卯一郎の三男として大正12年に生まれ、陸軍少年飛行兵学校を出て、当初は飛行第59戦闘隊で97式戦闘機を操り、第64戦闘隊に異動後は、専ら一式戦闘機「隼」を操縦して、戦闘任務に従事していました。 #小説6-1
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