冬の匂い

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冬の匂い

「午前十時丁度。」 僕は誰に言うともなく、文字盤と針を見たままに読み上げた。偶然目にしたのがきりのいい時間であったことに、なんとも言えない優越感が込み上げる。しかし、一秒と経たない内に思い出してしまった。 「……マイナス六分二十三秒。」 この腕時計は、六分と二十三秒だけ進んでいるのだ。特に理由もなく。……強いて言うなら、腕時計(こいつ)の故障と僕の不精さと言ったところか。  なんだかくだらないことに気を取られていた感じがして、無造作に靴の先を地面に叩きつけた。 「行ってきます。」  扉を開けるとすぐに寒さを感じて、コートのボタンを全て留めた。首に巻いたマフラーのおかげもあってか、少し暖まった気がした。家にいる間は「マフラーの季節じゃないかも」なんて思っていたが、今となってはこれほど正しい選択は他に無かったのではないかと思う。でかしたぞ、僕。  そんなことを考えながら、角をいくつか過ぎた頃。後ろの方から元気な声が飛んできた。 「保坂(ほざか)ぁぁぁぁああああっ!」 そいつはとてつもない速さで駆けて来ると、その勢いのまま僕に抱きつこうとした。身の危険を感じた僕は大股一歩分横に()ける。 「おはよおー!なんで避けたの!」 「おはよう。ドップラー効果を体感しようと思ってな。」 「なるほどね?おれ、保坂を過ぎてからすぐに止まっちゃったけどなあ……何かわかった?」 「スタートダッシュから、神原(かみはら)は遠くてもうるさいとわかった。」 「な、なぬ……?おれがうるさいことしかわかっていない……?」 神原は「間違ってはいないけど」と付け加えながら丸眼鏡をくいっと上げると、こう続けた。 「ところで保坂、どこ行くの?」 「え、そりゃ学校だろ。」 僕が答えるなり神原は目を丸くして、「今日は日曜日だよ?」と言った。 「え、本当に?」 「嘘だよ?」 神原はやや食い気味にそう言ってみせると、したり顔を浮かべた。 「嘘かよ……。」 「うん!それにしても保坂が遅刻なんて珍しいねえ、おれと違って。」 「神原は常習だもんな。」 「えへへ、照れるなあ……。それで、今日はどうしたの?」 「照れるところじゃない」なんて返しをさせる暇も与えずに、神原はそう尋ねる。 「あー……えっと……体調不良?」 彼が柄にも合わない真剣な顔で見つめるものだから、変に狼狽えて語尾が上がってしまった。 「まさかの疑問形……!?まあ、秋は体調崩しやすい時期だもんねえ。治った?」 「……朝よりはマシ。」 「治ってないんかい!元気のない奴帰れっ!」 神原は両手の人差し指を立てて、僕の家の方角を差しながらそう言った。 「やる気のない奴帰れのノリで言うなよ。」 僕が笑いながらそう返すと、神原はまたへらっと笑った。 「えへ。でも本当に、元気ないなら帰りなよ?おれも保坂の家に着いて行って、下校時間まで看病するしさ。」 「ちゃっかり学校休もうとしてないか?」 「バレちったあ!」 神原は白い歯を覗かせて明るく笑う。 それにつられて僕も笑いそうになる。  ふと、冷たい風が吹きつけてきた。 「ひゃあっ!親指っ!」 神原は目をぎゅっと閉じてそう言った。それにしても、なぜ親指?と少し考えると、親指を意味する英単語がthumb(サム)だったことを思い出して、神原が「(さむ)」と「親指(サム)」をかけていたことに気付いた。 「神原の駄洒落(だじゃれ)でもっと冷え込んだよ。」 僕は自分で自分を抱きしめるようにして、「寒い」のジャスチャーをした。神原はそれを見て……あるいは僕の言葉を聞いて、嬉しそうに、声を上げて笑う。 「おれねえ、保坂のねえ、そういうところ、大好きなんだ。」 神原は、秋風の冷たさを忘れてしまうくらいの暖かい笑顔を向けた。僕はというと、突然の「大好き」に驚き、ぼんやりと神原を見ていた。一体どこに好かれる要素があったのか。自分では全くわからず、正直に「どんなところ?」と尋ねれば、「ええ?」と聞き返される。神原は頭を抱えた後に、 「……当たり前にあるものってさあ……具体的に説明するのが難しいよねえ……。」 と唸った。「でもねえ、保坂が大好きなのは本当だよ?」という言葉を添えて。 「よくわからないな。」 「おれも上手く言えないの!」 神原の耳が赤くなっていた。そのときに、僕はわかってしまった。 「……秋風に負けることなんて、あるんだな。」 僕は誰に言うともなく、ただ呟いた。神原は小首を傾げて僕を見る。 「寒いの?結構立ち話しちゃったもんねえ、手繋いで行こっか。」 神原はそう提案するなり、僕の手……というより、指先を握るようにして手を繋いだ。彼の手は思ったより冷えていて、思わず「( つめ)たっ!」と叫ぶ。 「"秋風"かあ。おれ的には冬だけどなあ。」 ゆっくり歩きながら、神原がそう言った。 「まだ秋だろ。紅葉してるし、雪も降ってないし……。」 「でも冬の匂いがするよ?」 「なんだそりゃ。」 神原を見ると、未だに耳を赤くしていた。 「冬の匂いは、冬の匂いだよお。」 当の彼はこちらではなく、生垣の植物を見ている。 「おれにとって、当たり前にあるんだ。だからね、具体的に説明するのが難しいけど……嗅いだら"冬だな"って思える匂いなんだあ。」 「……やっぱりよくわからないな。」 「だよねえ。」 神原はこちらを向いて、笑ってみせる。 ──僕は、「大好き」に期待したのかもしれない。あのときから、恋敵に負けたように残念で、虚しい気持ちになっていた。彼の耳を赤く染めるのは僕ではない(ただの秋風)と悟った、あのときから。  僕は、彼の指の間に握られた指を滑らせて手を繋いだ。
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