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今年で23歳になった。まだ夢を見ているのではないか、と思い始めて5年。
実はまだあの頃のあのベッドで眠っていて「こんな人生もあるんだ」という夢を見ている途中なんだ、という思いがずっと消えないでいる。思い始めて5年と書いたが、それは曖昧なのだ。学生の終わりから数えるとそうだけれど、実は小学生の頃からまだ時は動いていなくて、目が覚めればランドセルを背負うのが当たり前の日常に戻る。そんな気がしてならない。
そう思いたいんだ、なんて口が裂けても言いたくない。声に出してしまえば何かが崩れてしまいそうで怖い。そう、これは所謂悪夢なのかもしれない。
小学生の頃、自分は大人になれないと思っていた。見上げていた大人たちは未知の生き物で、学校でお喋りする彼らとは全く別の生き物な気がしていた。僕の訴えかけた疑問には訳のわからない言葉で返してくる。何も伝わらないし伝える気力さえ徐々に失っていった。
学生生活というのが世界の全てで、学生が終わればどう生きていいのかわからない。教えてほしいと縋ったこともなかったけれど、本当に聞きたいのはそれではなくて、僕は将来誰に甘えてたらいいですか、だと思う。もっと砕けば、誰になら甘えても子供でいられますか、かもしれない。「歳はとりたくないね」「学生に戻りたいね」と大人からよく聞くそれとは違って、「身体がどう成長してしまおうと子供のままでいたい、子供のまま死にたい」と嘆き叫びたい。でもこれはきっと、みっともない、いい加減大人になりなさい、そんなことできるわけない、という言葉しか返ってこないだろうと諦めているから、心に秘めて生きているのかもしれない。
子供が強くもっている感性記憶力期という時期はほんとうに僕の脳から消えてしまったのだろうか。こんなことを願いながら生きている時点でまだ子供だと言ってもらえるだろうか。
夢の中で大人みたいになってしまった僕。この夢が覚めるまで、素直に100%吸収できる子供脳に戻れる時間がひとつだけある。それは読書っていう時間。本が魅せてくれる物語は無我夢中させてくれる。その眼はきっと好奇心旺盛の子供の眼差しに違いない。もちろんそれだけじゃないけれど、文学は生きる意味と夢を囁いてくれる。
ここからはただ子供の我儘だと思って見てほしい。
ある日、仕事をするのが当たり前の歳になってしまった僕に、母親がこう言った。
「いい加減まともに正社員で仕事したら?」
フリーターとして生き始めた僕に突き刺さった言葉はよくある言葉だった。大人になったんだから当たり前だろ、なんて声が飛んできそうで怖いけれど、僕はその言葉に泣きそうになった。
「僕は夢を見ているんだから、まだ子供なんだから、そんなこと言われてもわかんないよ」
言っちゃいけないとわかっていた。だからこれは心の声。わかってもらえるわけない、こんなの。必死に押し殺して唇を噛んで、適当に返事するしかなかった。なんの病名申告もされていない僕が、これを言ったら「変」だと言われると、悪夢の中で知ってしまったから。
早く夢から覚めてくれませんか。いい加減、という言葉は大嫌いだけれど、今だけは使わせてほしい。
いい加減長いよ。
未だに夢だと思っている長い夢を、思い出して涙目になりがらこの文章を書いている僕の悲しさがわかりますか。子供みたいにわんわん泣けない寂しさがわかりますか。静かに涙を拭くという癖を覚えてしまったこの脳がどれほど憎いかわかりますか。震える指でまだ書いてる意味が、わかりますか。
自分で自分が変だと思ってしまっていることを隠しながら笑う息苦しさが、僕はわかります。
こんな締め方ではただの同情売りになってしまうね。だからこの文章を読み終えたあと、子供の我儘を聞いてやった、とそれくらいの気持ちで忘れてくれてもいい。そうすればあなたの脳に最後に残った僕は「子供」のままであると願えるから。
僕は人生を夢のように生きている、ではない。夢を生きている、なのだ。どれだけ思考法を学んで、どれだけ自分を捨て、どれだけこれを考えない時間を作ろうが、どう抗おうが夢なんだ。僕はまだ小学生。だから小学17年生。まだすやすやあの頃のベッドで眠っている子供。
この身体を第三者の視点で見れてしまうのはこれが理由かもしれない。僕は自分の身体がすべて他人のようである。僕は本当は別にいて、この身体を勝手に動かしているだけに過ぎない。それが痛覚までリンクさせてしまったから失敗だ、なんて、訳わからないよね。
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