2 袋田の一人暮らしの部屋。1:20

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2 袋田の一人暮らしの部屋。1:20

 袋田は、食事も風呂もまだ。帰宅してすぐ椅子に座ったきり、スマホいじりを続けている。アプリチェック、諸連絡、ネットサーフィン。何やってるのかと自分でも思う。別に楽しくもない。連絡だって今する必要はない。それより早く寝ないと。まずは風呂。明日会社で体が臭わないように。そう思いながらも、スマホを手放せない。心温まるネット記事に、これは何かの救い、と無理矢理自分に言い聞かせる。  袋田は、生活フルプランナーである。会社は「生活フル」をスローガンに、生活フルのウェブサイトを運営する。生活フルとは何か。簡単に言えば、日々の生活の中で「お得」を得ることである。スーパーのヨーグルト特売、電子マネーの10%ポイント還元キャンペーン、人気アイスクリーム店での1日30食限定の特製アイスクリーム販売等々。サイトで次々と情報発信する。会社の限られたマンパワーでは限界がある。代わって、口コミ投稿が大きな役割を果たす。人気の口コミは、会社がピックアップし、ポイントを付与する。そのポイントはネットショッピングに利用できる。会社は、「生活フルでみんな笑顔」を合言葉に、生活フルのウェブサイトを安心して楽しめるよう、日々管理運営している。攻撃的な口コミやフェイクなどの有害情報は、サイトの信用、安心・安全にかかわる。会社の社員は日々、投稿情報とその元ネタを細かくチェックする。  その上で、会社は、自らも生活フル情報を発信する。ショッピング関連だけでなく、芸術や音楽、公園などありとあらゆるものについてのお得感のある、生活フル情報である。この情報を発信するのが生活フルプランナー、袋田達である。彼らは、それぞれの日常からお得を切り取り、発信する。中には経済情報に特化した者もいるが、それは大抵会社外注の専門家である。社内の生活フルプランナーは、生活上手で健康的な一般人。少なくとも、そう読者に思わせる人達である。  さて袋田。良質な生活フル情報の発信に日々勤しんでいる。様々な情報にアンテナを張り巡らす。サイトの口コミを隅々までチェックし、人気の社内生活フルプランナーや情報通の知人から話を聞き、モニターの座談会に足繁く通い、インターネット情報を貪欲に吸収する。原稿は、誤りのないよう執拗にチェックを繰り返す。少しでも易しく美しい表現になるよう異常なまでに一言一句に気を遣う。だが、会社が期待するのは、渾身の一本ではない。情報は鮮度が命である。高鮮度で独自視点のお得情報を小気味よくコンスタントに発信するよう会社は求める。袋田もその例外ではない。だが袋田は、相当吟味し、推敲を重ね、逡巡してからでないと発信できない。そのため、他の社内プランナーの何倍もの時間がかかる。  会社は今時珍しく、社員の自宅勤務を厳しく禁じる。仕事とプライベートの強制的メリハリが、社員の生活フル、ひいては仕事の質につながると考えている。会社にとっての自宅勤務者は、口コミを投稿するユーザーである。袋田を含む全社員は、会社で仕事をする。残業は厳しく制限される。時間がかかる袋田が定時を過ぎて作業を続けているのは、袋田がこだわりで好きにやっている、という位置付けである。  社内では、袋田は、誠実で真面目、どんな相談にも快く応じ、文句や愚痴を一切言わない人で通っている。 「袋田さん、この口コミどう思います?」  社員が頻繁に袋田に相談する。生活フルプランナーの袋田の仕事ではない。だが袋田は、常に誠実に考える。関連する全やり取り、他ユーザーの反応、投稿者の傾向、元ネタ、ありとあらゆる角度から、その口コミを検討する。その上で、口コミの真意、影響を考える。社員は迅速対応のプレッシャーにさらされている。袋田は、その気持ちまで汲む。自分の仕事そっちのけで、至急検討する。「いろいろ不十分で申し訳ありませんが、お急ぎでしょうし、今ざっと検討した範囲で、拙い意見を申し上げると……」と検討結果を伝える。その綿密な分析に社員は、ああ、 やっぱり袋田さんに相談してよかったとしみじみ思う。袋田への相談が絶えないわけである。  だがこれは、袋田に割り当てられた仕事ではない。やはり、袋田が好きにやっている、という位置付けである。自らの仕事の締切さえ守っていれば、会社は何も言わない。社員の相談を受けることで、袋田の人事評価が上がることも、下がることもない。
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