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「やつはトライド・ブロイといいましてね。元々はトイエンマーデルトの下っ端研究者で、軍の研究に尽力していたそうです」
やはりあの研究者がトライドさんで間違いないようだ。
頷くと、ナポロさんは少し悲しそうな表情で話を続ける。
「……しかし暗殺の成功報告を聞くたびに疑問を抱くようになって、死黒手のさらなる改良……やつは改悪と言ってましたが、それを目指すと発表された時に国を裏切る覚悟を決めた、と言っていました」
それは、とても重い決断だっただろう。
トイエンマーデルトからも、レイディヴァトからも殺される可能性はあったはずだ。
それでもトライドさんは亡命し――それが今に繋がっている。
「危険を潜り抜けて亡命してきたやつはこの国のために研究がしたいと言い、何人かの薬屋と協力して死黒手の解毒薬の研究を始めましてね。それをきっかけにヤニックと仲良くなり、ヤニックを通じてわしとも交流を持つようになりました」
「なるほど。そういう繋がりがあったんですね」
僕の相槌にナポロさんは頷き、そしてふと表情を曇らせる。
「やつは優しかった。甘かったとも言えるでしょう。死黒手の被害者が出るたびに自らを責め、次第に無理をするようになりました」
トライドさんはきっと苦しかっただろう。
無理をすることで、その苦しみから逃げたかったのかもしれない。
「それが悪かったようで、ある日の朝ヤニックが研究室で倒れていたやつを見つけて……そのままやつは、マリス=クラーラ様の元へ逝ってしまいました」
「……マリス=クラーラ様というのは?」
「深淵の海という楽園にいらっしゃる、海に住む者たちを見守る女神様のことです。死した者は、マリス=クラーラ様によって深淵の海へと導かれるのです」
僕の問いにナポロさんはそう答え、それから深く頭を下げた。
「……聞いてくれてありがとうございます」
「こちらこそ、聞かせてくださってありがとうございます」
涙声のナポロさんにそう返し、そっと彼の背を撫でる。
大柄な彼の背中が、今はとても小さく見えた。
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