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躾がようやく終わり、僕は次の仕事へと急ぐ。
完全に遅刻だ。そう考えるだけで震えが止まらなくなる。
腕をつねって無理やり震えを止め、次の扉をノックした。
「奥様。ヴァーミリオンです」
「入りなさい」
まだ少し震えている右手で扉を開け――反射的に目を閉じた。
飛んできたのは怒声でも鞭でもなく、液体だった。
ふわりとお茶の香りが鼻を掠める。
「遅いわ。何をしていたの?」
「先ほどまで」
「言い訳は結構よ」
僕の言葉を遮り、彼女は扇で口元を隠しながら冷たく言った。
「貴方のせいで部屋が汚れたわ。片づけておきなさい」
「……申し訳ありません」
そう返し、ポケットから布切れを取り出して床を拭く。
しかし紅茶の染み込んだカーペットはなかなか綺麗にならない。
(……無駄なことをしてるなぁ、僕)
どこか他人事のようにそう思っていると、がつんと額を床に押しつけられた。
後頭部の感触からして頭を踏まれているらしい。
彼女は無言でグリグリと僕の頭を踏みしだき、何度か踏みつけてから満足したように言った。
「もういいわ。早く下がりなさい」
「……分かりました。失礼いたします」
布切れをしまい、深く頭を下げて退室する。
(……あれだけで済んでよかった)
誰もいない廊下でホッと胸を撫で下ろし、それから次の仕事へと急いだ。
次は掃除、その次は雑用、その次は――なんて、数え出したらキリがない。
これが僕の日常だ。
魔法薬学を教わったことは一度もない。家庭教師をつけられることも、学校へ通わせることもなく、それどころか本を読むことすら許されない。
使用人のように働かされ、奴隷のように扱われる。
どう考えても跡取りに対する仕打ちではない。
やはり養子でしかない僕には家を継がせたくないということだろうか。
それとも、何か別の理由があるのだろうか。
何か気に障ることを僕がしてしまったのだろうか。
決して分かることはないと分かっていても、つい考えてしまう。
僕がこの家に来たことに、意味はあったのかと。
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