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真希と卓
初めから悪い予感があったのだと、平石真希(ひらいしまき)は述懐した。
真希が君島卓(きみしますぐる)と出会ったのは、大学の文芸サークルでだった。
ランボーやヴェルレーヌ、ボードレール、マラルメなど、19世紀のフランスの詩人が好きという今どき珍しい嗜好が一致して、意気投合した。
文学少女の真希は、現代にしか立脚していない薄っぺらな男に興味がなかったが、君島は文学的な奥深さを雰囲気としてまとっていた。
長野の田舎の出身というが、都会で1年間予備校に通っていたためかすっかり垢抜けしていて,都会育ちの真希より洗練されているように見えた。
それでいて、大自然の中で育った素朴さも兼ね備えていて、それが少年ぽい魅力となって真希の心を捉えた。
数か月後、2人は付き合うようになった。
大学のサークルという交際に追い風となる環境の中でではあったが、異性と付き合うのが初めての真希はその経過の順調ぶりに我ながら驚き、舞い上がりそうになる気持ちを警戒心で抑えた。
うまくいきすぎていて、何か詐欺にでもあったような心持がした。
文学という理性的な垣根を間に挟んだ関係も、好ましかった。
文学少女にありがちな世間を斜に見るような皮肉な目を持った真希は、順調な交際に潜む落とし穴を予感しつつ、自分は恋愛感情で理性を曇らせたりは絶対しないと、気を張っていた。
最初のうちは共通の文学という現実から遊離した世界で会話を弾ませていたが、親しさが増すに従って、話題は現実に降りていかざるを得なかった。
大学近くの学生の溜り場のカフェで、2人は遅まきながら自己紹介めいたことをしていた。
「長野って、自然が多くて空気もいいでしょうね。都会育ちの私にはうらやましい」
君島が長野の出身と聞いて、真希はやや大げさに褒めた。半ば本音だったが、特に長野に思い入れがあるということもなかった。
「山ばっかりだよ、長野は。実際、県の8割は山なんだ」
「え、私山好きだよ」
山を眺めるのは好きだが、登山するほどではない。
しかしこの辺りまでは真希も平常心で会話できたが、続いて君島の口から彼女にとってタブーとなる語が出た時、それは真希の心臓を直撃した。
「それと、長野と言えばソバだね。ソバ好き?」
真希は自分の天敵の名が好意を寄せている男の側から発せられたショックで、すぐに返事ができなかった。
「おソバは、それほど……」
それは嘘にならない範囲の精一杯の返答だった。
「そう? 信州そばは日本一美味しいよ。本場の美味しいソバを一度食べたら、やみつきになるね。実は僕の実家、ソバ店なんだ。長野市内に店があるんだけどね。
僕は長男だから、いずれ店を継ごうと思ってる。親は、お前の好きな道を進んでいいと言ってくれるけど、僕はソバが好きだし、将来どんな仕事に就くか迷わなくていいから好都合なんだ。
高校生の頃から親父の指導の下で、ソバ打ちの練習を始めたんだ。
こう……、ソバ粉と水を混ぜてこねてソバ玉にして、それを麵棒で平たくのして、たたんでソバ切り包丁で切る。
なかなか親父のようにうまくいかないよ」
君島は、身振り手振りを交えてソバ打ちの手法を実演した。
19世紀のフランスの詩と長野のソバ、一見何の接点もないこの2つが、君島卓という唯一無二の人物の中で和洋折衷の料理のように溶け合っていた。
真紀は一瞬、そのコラボレーションに思いをはせたが、ソバという語句に押し戻された。
「君も、僕の実家のソバを食べてみるといいよ」
君島は少し照れながら言った。
それは2人の距離をぐっと縮めるインパクトのある言葉で、本来なら舞い上がるところだが、真紀にはそれを受け入れる資格がなかった。
「ありがとう。それじゃ、いつか」
と、お茶を濁すしか方法がなかった。
そしてソバの話題から逃げるように、彼女は「今日はこれで」とその場をお開きにした。
不本意な対応しかできない自分がもどかしかった。
しかし、他にどう対応すればよかったのか。
真紀は、歴然としたソバアレルギーだった。
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