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ソバの花
「長野県○○地方の山では、今ソバの花が咲いて、近隣の人や遠くから見に来る人たちの目を楽しませています」
ソバという語に反応してテレビの画面を見ると、そこには小さな白い花が一面に咲いていた。
茶色いソバとは印象の異なる白い可憐な花で、そこに吹き渡る風の清々しさを体現しているようだった。
都会の夏の風はうんざりするような湿気と熱を孕んでいるが、ソバ畑に吹く風は風本来の、透き通った心地よい肌触りなのだろう。
あそこに行って風を感じ花の匂いを嗅いでみたいと真希は思ったが、すぐに否定した。
ソバアレルギーの自分は、ソバに関連する一切に近づいてはいけない。
幼稚園の頃、家でソバを食べた真希は体中に蕁麻疹が出て、慌てて医者に連れていかれた。
血液検査をしたところ、ソバアレルギーだろうと診断され、蒼白になった両親は以来、自分たちも家でソバを食べることをやめた。
給食にはソバやそばを原料にしたものはほとんど出されなかったが、学校にソバアレルギーだと報告して、厳重に注意してくれるよう頼んだ。
もちろん、ソバ屋も立ち入り禁止。
大みそかには家族そろって、年越しソバの代わりに年越しうどんを食べた。
美味しい食べ物は世の中にいっぱいあって、ソバを食べられなくても何の不満もなかった。
だからソバアレルギーということは、真希の人生に格別暗い影を投げかけはしなかった。
ソバを自分に縁のない食べ物として、割り切って考えることができた。
世間には縁のない食べ物がたくさんあって、それらにあえて興味や執着を持つのは無意味だった。
しかし、君島卓と出会ったことで、状況は一変した。
ソバ店の跡継ぎである彼とソバは、切っても切り離せない。
白い花が咲き乱れるソバの畑の中で、明るい日差しを浴びた君島が真希に向かって「ここにおいでよ」と手招きしている。
そこへ行きたいという欲求が真希の中で膨れ上がるが、ソバアレルギーという事実から片時も目を離さない理性が、彼女を引き止める。
真希は生まれて初めて、ソバアレルギーである自分の運命を嘆いた。
恋愛なんて、文学(小説)の中だけで沢山。それは絶えず波立ち揺らいでいる海のようなもので、そこへ無鉄砲にボートで漕ぎ出して翻弄されるのが関の山という信条だった真希が、現実世界で恋愛の罠にはまってしまった。
恋愛とは、己の意思にかかわらず人生に降りかかる運命の一形態なのだろうかと、真希は文学的に思考した。
しかし、事態は文学から頭を切り離さなけれぼいけない具体性を呈していた。
すなわち、君島との交際をずるずる続けるべきか、傷が大きくなる前に終止符を打つべきか。
ソバアレルギーに終わりがない以上、この状態を引きずっても疲弊するだけだろう。
それなら早いうちに君島から離れるべきなのか。
しかし、恋愛の早期というものは相手の良い面ばかり見えて、感情の温度は急上昇する。それを抑制しようとしても、熱に焼かれてしまうだろう。
むしろ時間が経って相手のアラが目についてくるのを待った方がよくないか。
一人で悶々と考えていても一向に解決しないので、真希は高校時代の友人、向井国江に会って相談することにした。
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