秋の日の散策

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秋の日の散策

10月のある秋晴れの日の午後、その日の講義を終えた真希と君島は、大学の近くを散歩した。 君島から誘った形だったが、夏の暑さから季節が秋に移ったのだと物語る、高く澄み渡った青空の下を散歩することは、真希の願望でもあった。 君島は大学から歩いて10分くらいのところにある学生寮に住んでいて、その辺りは川があっていい環境なのだと言って川のそばを歩くことを提案した。 川の土手には桜の木が植えられていて、春には魔法がかけられたような美しい光景になると、君島は自慢するように説明した。 こじんまりとした川なので花見の客もあまり多くなく、朝など人気がほとんどないので、景色を独り占めできる、と。 今は黄色く色付き始めた葉が季節の移ろいを囁いて、ひっそり秋の構図に収まっている。 川の対岸には君島が暮らす学生寮の茶色い建物が建っていて、これもまた秋の景観に調和していた。 君島は懐かしいものでも眺めるように学生寮に視線をやり、「秋の日のヴィオロンの……」と口ずさむように呟いた。 「ヴェルレーヌの『秋の日』ね」 すかさず真希が指摘した。 あまりにも有名で敬遠したくなる詩だが、秋の風景に佇む心から自然に湧き出てくるようだ。 「知ってる?この詩は第二次世界大戦の時のノルマンディー上陸作戦の暗号に使われたって」 「え、そうなの?」 「第二次世界大戦の頃にはヴェルレーヌはもう故人だったけど、もし生きていたらどう思っただろうね」 それは、当然いい気持ちはしなかっただろうと、真希は口に出さずに心の中で想像した。 それにしても、秋の夕暮れの風景の中、川辺でヴェルレーヌの詩をそらんじる君島の、なんと文学青年然としていることか。 現代的な背景は、彼には似つかわしくない。 旧制高校の制帽やマントを身にまとったら、さぞかし見栄えがすることだろう。 真希は恋愛感情の蛇口を締めようとしているのに、それが決して完全には締まらず、滴がポタポタ垂れることを予感していた。 単にに見た目が好みだというだけでなく、2人とも前世は19世紀のパリの空気を吸っていたのか、波長が合う。 運命と軽々しく言いたくないが、このめぐり会いには運命的なものがある。 そう思うと真希は全身が火照るのを感じたが、すぐさま、ソバアレルギーの件も運命が投げかけた矢ではないかと自分に反問した。 こんなに思い悩むのなら、今すぐにでも「私はソバアレルギーなの」と告白した方がすっきりするのではないかという考えが束の間首をもたげたが、もし君島が「それなら僕はソバ屋を継がない」などと言い出したらどうする。 彼の人生設計を狂わせてしまうことになる。 ソバ屋の息子に生まれついた彼にとって、ソバは運命なのだから。 運命というのは単純明快なものではなく、いくつかの運命が交錯してぶつかり合うこともあるのだと、真希は気付いた。 立ち止まって川の景色を眺めていた君島が真希に振り返って、「この川沿いに歩いていくと、こじんまりしたいい感じのカフェがあるんだ」と言った。 「いいね!行きたい」 カフェ好きの真希は、即座に応じた。 そして歩き出した君島についていく形で真希は川や君島の後姿を交互に見ながら、心地よいものに囲まれた「今」の幸福感を味わった。 「そう。何も今すぐ結着をつけることはない。この先に予感されているつらさに惑わされて、今のいい気分をぶち壊しにするのは愚かだ」 とりあえず、余計なことを考えないでおこうと真希が歩を進めた時、履いていたスニーカーに小石が当たって、思わずつまずきそうになった。 「あ!」と小さい叫びを漏らしたが、前を行く君島は気付いていないようだった。 つまずいた拍子に、真希はあるとき君島は口にしたセリフを唐突に思い出した。 「ランボーがパリの文壇にデビューできたのは、田舎から呼び寄せたヴェルレーヌのおかげだよ」 ランボーと出会ったのがきっかけで詩や文学に興味を持つようになった真希は、ほんの少し反発した。 「でも、ヴェルレーヌはランボーを銃で撃ったんでしょ」 「まあ、それは関係が破綻した時のことだよ」 その時には単なる意見の食い違いと感じたやり取りが、今何か意味があるようによみがえった。 「何でもない」と、首を振った真希の首筋を、秋の夕暮れの風がひんやり撫でた。 と、草むらから突然猫が現れ、「ニャー」とあいさつするように鳴いた。 真希は足を止め、かがんで猫の背中に手を置いた。 「可愛い! 首輪をつけてるから、どこかの飼い猫かな。昔うちで飼っていたトラに似てる」 今度は君島も気付いて、振り向いて真希と猫に目をやった。 なぜか彼は体にピリピリと電流でも感じたかのように、顔をしかめて立ちすくんでいた。 飼い猫なので安心して猫の毛をさすっていた真希は、君島の不自然な様子を察知して手を止めた。 猫が嫌いなのだろうか。 単刀直入に聞くのもためらわれ、また猫をかまうことに集中した真希の耳に、君島がくしゃみを連発する音が聞こえた。
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