5.笑顔

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5.笑顔

 その日、僕は少し前にマヤに習った絵画に挑戦していた。  スケッチブックに絵の具でいつも見上げている空を描く。  ただ青いばかりの空。  僕と同じ名前の空。でもこの空の先にはなにもない。  僕にはそれを見ることができる。この空の向こうが、真っ黒な空間であることを僕は知っている。  でもそれを描きたくはなかった。  今、目の前にあるこの青を、ただ写し取りたくて、夢中で絵筆を動かしていた。  そのとき、気が付いた。 「あ」  ドームの片隅で、椅子に座って本を読んでいたマヤが、どうしたの? と言う顔で僕を見る。  答えることもできないまま、僕は立ち上がる。その拍子に手元に置いてあったバケツが倒れて水が床に流れてしまったけれど、それを起こすことも忘れて僕はドームの上を見上げた。  敵だった。  敵が、やって来る。  黒い空間から、青いこの空へ。 「敵が来る」  呟いたとき、地鳴りのような音と共に地面が揺れた。  とっさに意識を飛ばして僕は愕然とする。  ドームの外は火の海になっていた。悲鳴めいた音を立て、なぎ倒される木。あっという間に赤に沈んでいく野原。沸騰する河。  このドームの壁も炎になめられ始めている。 「ソラ!」  声に我に返ると、マヤがドームの一角の床板を持ち上げていた。その先には地下に続く階段が見える。 「大丈夫! ここから脱出しましょう! 早く!」  促され、数歩マヤに近づく。けれど僕は歩みを止めた。  思いだしたのは、先生の言葉だった。 ………もし、敵を中に入れてしまったら、もう終わりだ。 ………お前の力は強すぎる。もしこの星で敵に向かって攻撃を放ったら、その力でこの星の中すべてが焼かれてしまう。 ………だから、いいか。絶対、敵を大気圏の中に入れちゃいけない。もし入れてしまったらそのときは。 「マヤ」  呼びかけると、険しい顔でマヤが振り向く。僕はその彼女に首を振った。 「僕は、逃げない。先生に言われているから。もしこうなったら、外へ行けって」 「どういうこと?」 「中の敵はもう、僕の力では倒せない。僕の力をここで使ったら、この星が全部燃えてしまうから。でも、外からならうんと遠くからなら、この星の中の敵も倒せる」 「待って! 外って、そんなこと」 「僕の力なら外に出ることはできる。そうすればこの星を守れる」 「こんな星、どうでもいい! 全部、私たちの方が悪いの! 彼らは攻撃されたから攻撃しているだけ! 戦うことしかできないこんな星は滅びてしまえばいい!」  そう叫び、マヤは僕の両肩を掴んで揺さぶった。 「大体、あなたわかってるの? 確かにあなたの力なら大気圏の外にも出られるかもしれない。でも大気圏を超えるってことは想像以上の負荷があなたにかかるのよ。行けたとしても戻れないの! あなたの体は万能じゃない。元は人間なんだから!」 「でも行かないと、マヤが死ぬ」  きっぱりと言い切った僕の顔をマヤが凝視する。その彼女に僕はもう一度首を振ってみせた。 「それは嫌だ」 「そんなこと……」  マヤが絶句すると同時に、ぱりん、とドームのガラスが割れた。僕は自分より大きなマヤの体を引きずり、マヤが開けた地下道へとマヤの体を押し込む。 「ソラ!」  マヤが泣きそうな顔をする。ああ、こんなときなんて言えばいいんだろう。  なにか言いたかったけれど、なんて言っていいのかもわからない。  だから、僕はマヤに教わったことの中で一番好きなことをした。  唇を横に引き、唇の端を上に。  頬を上へ上げるようにして、目を細く。  笑顔を、作った。  少しずつできるようになっていた笑顔だけれど、今日の笑顔はちゃんとできていただろうか。  若干怪しい。  けれど、いいんだ。  僕はばたん、と音を立てて地下道の入り口を閉じると、近くの椅子を持ってきて地下道の入り口をふさいだ。  マヤが出てきたら大変だ。  そして、ドームの中央に立ち、目を閉じた。  火が迫る中、僕は祈る。  空へ、空へ。どうかこの体を空へ、と。  目を開けたとき、僕は真っ黒な空間へはじき出されていた。  眼下にはこれまで僕が守ってきた星がある。  青くて、透き通っていて、明るい星。  見つめているだけで目が青く染まるような、そんな星。  少しだけ、ドームの中から見上げた青に、それは似ていた。  でもその星のあちこちで花火が上がっている。敵だ。  僕は、念じる。  出ていけ!  出ていけ!  出ていけ!  僕の力が敵を星の外へと押し出していくのがわかる。  そして念じれば念じるほどに、僕の体の輪郭がほどけていくのもわかった。  手が、足が、肩が、すべてが空間に紛れるように透明になって消えていく。  でも、僕は念じ続けた。  出ていけ!  出ていけ!  出ていけ!!  自分の輪郭が消える、最後の一瞬、敵の一人の顔が見えた気がした。  僕の力によってこの星からはじき出され、僕の浮かぶこの黒くて暗い空間へ消えていく、その瞬間の敵の顔が。  それはマヤや先生と同じ、人の顔をしていた。  敵もまた、人間だった。  でも僕は、後悔はしない。  だってここにはマヤがいる。  マヤは言った。こんな星、滅びてしまえばいいと。  悪いのは自分達なのだからと。  そうなのかもしれない。  難しいことはわからない。  ただ一つ、僕が言えることは、マヤには死んでほしくないってこと。  もしかしたら、これも間違っている、とマヤは言うのだろうか。  けど、いいんだ。  消えていく。僕の体のすべてが暗い闇にほどけていく。  青い青い星を見下ろし、僕はもう一度笑顔を作った。  マヤが教えてくれた笑顔を。  大好きだよ、の思いを込めて。
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