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ヒーロー
名前も知らない男性が目を覚まし、私は号泣した。
頭部と足に包帯を巻いた男性が号泣する私を見つめていた。
「私のせいですいません」
何度も謝った。
男性は穏やかに微笑んでいた。
いいよ、気にしないで。
そんな風に答えているような表情だった。
昨夜、私は交通事故にあった。
酔っ払って道路に飛び出してしまい、車に轢かれそうになったところを彼が助けてくれた。
私はすり傷で済んだが、彼は意識がないまま救急車で運ばれた。
このまま目を覚まさなかったらどうしよう。
そのことばかり考えていた。
私の不注意で誰かの人生を変えてしまったことにひどく後悔している。
これからどうやって彼にお詫びをしていけばいいのか。
助けてくれてありがとうなんて言葉は出ない。ただ、ごめんなさいと謝罪の気持ちしかなかった。
私はそれほどのことをしてしまったのだ。
だから、彼が退院するまで精一杯、お世話をしようと決めた。
私たちは、まず自己紹介から始まった。
彼は、二十六歳の会社員で、家も近所だった。
家族や親戚はいないらしく、彼から鍵を預かって彼のアパートに必要なものを取りに行った。
ほどよく散らかった男性の一人暮らしの部屋だった。
郵便物を確認し、戸締りをして、着替えと洗面道具、パソコンを持ち出した。
病院に戻ると、病室にスーツを着た男性が二人いて彼と話をしていた。
一人は彼の上司なのか中年の男性で、もう一人は若い男性だった。
「なんだ。おまえ彼女がいたのか。こんなかわいい彼女に世話してもらって幸せだな」
私に気づいた中年男性が大げさに言った。
彼は、「いえいえ、ちがいます」と否定したが、男性は「照れるなよ」と彼の肩を叩いた。
彼が、痛そうに肩を押さえたので、「悪い悪い、病人だったな」と中年男性はガサツな声で笑った。
「本当にちがうんです。車に轢かれそうになった私を助けてくれたんです。命の恩人なんです」
着替えが入った紙袋を握りしめ、必死に釈明する私を彼らはポカンと口を開けて見ていた。
命の恩人……。
自分の口から出た言葉に重みを感じた。
「そうか、そうか。じゃあ、ヒーローだな。ヒーローとヒロインで、恋が生まれるんじゃないか」
病室に再びガサツな笑い声が響いた。
彼らが帰ると、病室は静かになった。
私は、紙袋から着替えとタオルを出すと棚に収納した。
「会社の上司です」
彼は言い訳するように口を開いた。
「お見舞いに来てくれるなんて、良い上司ですね」
「一応、形式的にこなしただけですよ。それよりなんかすいません」
紙袋を畳みながら彼の方を見た。
「葉月さんのこと、彼女って勘違いしたみたいで」
「いえ。大丈夫です」
「僕は、葉月さんみたいなきれいな人が彼女だって勘違いされてラッキーですけどね」
彼は、照れくさそうに頭の後ろをかいた。
それから毎日、昼間は大学に通い、そのあと彼の病室に向かった。
彼はおしゃべりで、私は彼の話を聞いていればいいので楽だった。
彼が話す内容は、主に仕事のことやコンピューターやプログラミングのことだった。
私には理解できない分野なので、彼の話を聞き流しながら、別のことを考えたりもする。
病室で持参したお弁当を一緒に食べたり、彼の下着を洗濯したり、その姿は、誰が見ても恋人同士に見えただろう。
土曜日、午前中は家のことをして、午後から彼の病室へ向かった。
扉を開けると、ベッドに彼の姿がなかった。
検査か何かだろうと、洗濯したタオルや下着を収納しようと棚に近づいたとき、背中で声がした。
「葉月さん」
振り向くと、車椅子の彼が真っ赤なバラの花束を私に差し出していた。
驚いて立ちすくんでいると、彼は言った。
「今日、誕生日でしょ?」
忙しくて自分の誕生日をすっかり忘れていた。
彼からバラの花束を受け取ると、彼は「手を出して」と言った。
手のひらに黒い小さな箱が乗った。
箱の形状や大きさから私は瞬時にそれが何であるのかを察知した。
戸惑っていると、彼が「開けてみて」と微笑んだ。
開けたくない。
これを開けたら何かが決定打になってしまうような気がする。
彼が私の動向をじっと見つめていた。
パカッとふたを上に開けると、そこには指輪があった。
シルバーのシンプルな指輪だった。
「名前も入ってるよ」
彼は指輪を箱から抜き取り指輪の裏側を私に見せた。
そこには、『Y&H』と彫られていた。
洋二と葉月。
彼は、私の左手をとると、薬指に指輪をはめた。
「ぴったりだ。よかった。僕もおそろいだよ」
彼は私に自分の左手の甲を見せて満面の笑みを浮かべた。
薄い唇から白い歯がのぞいていた。
「これは、いただけません」
指輪をはずして箱に戻し彼に突き返すと、彼は悲しそうな表情を浮かべた。
私は、慌てて取り繕った。
「バラはもらいます。うれしいです。でも指輪は高価なものなので、いただけません」
花束を抱えて私は病室を出た。
少女漫画なら助けてくれた人に恋をするのだろうが、私は他に片思いをしている人がいた。
私が彼のお世話をしているのは、助けてもらったお礼のつもりだが、彼はそうではないみたいだ。
彼の気持ちに応えることはできないが、命がけで助けてくれた人を邪険にもできなかった。
自宅に帰り、バラの茎の先端を切りながら花瓶に生けた。
生けながらバラの本数が三十本あることに気づいた。
意味を調べた。
『縁を信じます』
花瓶の水を捨て、バラをゴミ箱に捨てた。
「葉月」
退院する日、彼は私を初めて呼び捨てにした。
驚いて振り返ると、彼は「ありがとう」と言った。
「今までありがとう」
その言葉に肩の荷が下りた。
今日で解放される。
彼から解放される。
そう思うと、涙が出た。
「葉月がいてくれたから僕はがんばれたよ」
「助けてくれてありがとう」
私は、ずっと言えなかった言葉を彼に告げた。
今日で最後だと思うと、私の中から優しさがあふれた。
「洋二さんがいてくれなかったら、私死んでた。お世話も下手くそでごめんね」
「葉月はよくやってくれたよ」
この数か月の苦悩が涙と共に溶解していく。
「これからもよろしくね」
彼の言葉に耳を疑った。
これからも……よろしく?
呆然と彼の瞳を凝視する私に彼は満面の笑みを投げかけた。
「さあ、帰ろうか」
車椅子が回転し、扉の方へ向かう。
「ちょっと待って」
彼は、慣れた手つきで車椅子を操り、振り返るときょとんとした。
何か忘れ物? というようなとぼけた顔だった。
何と言えばいいのだろう。
さよならしたいなんて言えるわけがない。
私がそんなことを口にしてはいけないのだ。
「あの……洋二さんにも人生があるだろうし、その……何というか……そろそろお世話も控えたいなって……」
病室の床に視線を向けながら勇気を振り絞った。
彼は黙っていた。
ゆっくりと顔を上げると、彼は肩をすくめ、自分の太ももをさすった。
「僕、一生歩けないらしいんだよね」
それを言われたら私は何も言えない。
「リハビリをがんばればきっと……」
「無理なんだ」
彼は、うつむいた。
そして、顔を上げると、満面の笑みを作った。
「葉月がいてくれれば足なんてなくても生きていける」
ずるい。私の人生はどうなるの?
「さあ、帰ろう。久しぶりの家だ」
無邪気に笑う彼の車椅子を私は黙って押した。
彼の左手薬指にはシルバーの指輪が光っていた。
三月の海風は冷たかった。
「夜の海もいいね」
彼は無防備に黒い海を眺めていた。
退院してから彼はわがままになった。
毎日、彼の自宅に通って家事をこなして、頼まれごとを引き受けた。
入浴介助をお願いされて、「できない」と断ると、彼は、左手で動かない足をさする。
ヘルパーさんを手配したら彼は断った。
車椅子で一人暮らししている人の動画を見せ、「がんばろう」と励ましたら、「僕には葉月がいるから」と言い張り、自分でできることも私に頼む。
私が少しでも拒否を示すと足を言い訳に私に罪悪感を抱かせ縛りつける。
私は、この人に一生逆らえないのか。
この先もこの人に罪を償っていかなくてはいけないのか。
一体いつになったら許されるのか。
私がカットしたマッシュルームカットの彼の髪が風になびいている。
目が合うと、彼は微笑んだ。
この人はきっと許してくれない。
「あっちに防波堤があるから行ってみよう」
彼の後ろに回って車椅子をゆっくりと押した。
私は彼の足なのだ。
だから、彼をどうすることもできる。
夜中の海に人はいなかった。
長い防波堤を進みながら私は徐々にスピードを上げた。
残り三十メートルになると走り出した。
彼が振り返った瞬間、私は車椅子から手を離した。
ざぶーんと海面が大きくうねり、車椅子ごと投げ出された彼は、私の名前を呼びながら海の中でもがいた。
その足じゃ、泳げないだろう。
私は、静かにおぼれる彼を見つめた。
しばらくすると、彼は海の中に消えた。
黒い静かな海が戻った。
開放感でいっぱいだった。
やっと自分の人生を生きることができる。
最初からこうなっていればよかったのだ。
私を助けてくれた彼は、たしかに称賛されるべき勇気ある行動だった。
しかし、それを利用して私に罪悪感を抱かせ、縛りつけるその偽善的支配は許されることなのか。
「どうしたの? 急に元気になったね」
友人の真菜が驚きの声を上げた。
「問題が片付いたからね」
「問題って?」
「ちょっとね。こっちの話。とにかく私は、自由になったの」
大きく手を広げて空を仰いだ。
「ふーん。なんだかよく分からないけど、まあいいや。それより、慎くん釣りが趣味なんだって」
私が片思いしている慎くん。
ずいぶんと無駄な時間を過ごしたなと思う。
あの人がいなければもっと早く慎くんと仲良くなれたかもしれないのに。
私が無駄にしたこの数か月間、慎くんがフリーでいてくれたことがせめてもの救いだ。
真菜のはからいで、慎くんと友人数人と釣りに出かけることになった。
「海釣り?」
到着した場所は、あの黒い海だった。
あれから二週間、遺体が発見されたというニュースはなかった。
常に戦々恐々としているが、遺体が発見されても私が疑われることはないと思っている。
彼が動かない足を苦にみずから海に飛び込んだ……そういうシナリオが出来上がっているからだ。
彼の部屋にある私に関するものもすべて処分した。
「どうしたの?」
狼狽する私に慎くんが声をかけてくれた。
「何でもない。たくさん釣れるといいね」
私たちは微笑み合った。
友人たちは気をきかせて少し離れた場所で釣りを楽しんでいた。
慎くんといろんな話をしながら二人の時間を楽しんでいると、真菜が私たちのそばに来てささやいた。
「なんか変な人がいる……」
私と慎くんは目を合わせた。
「変な人?」
「全身ずぶ濡れの男で、首にワカメを巻いてるの」
私と慎くんは真菜のふざけた言葉に大笑いをした。
「笑い事じゃないよ。なんか目もおかしいし、しかも車椅子なの」
真菜の言葉に 息が止まった。
「ほら、見て。こっちに来る」
振り向くと、車椅子がこちらに向かってゆっくりと進んでいた。
海の底に沈んだはずの彼だった。
ずぶ濡れなのは私への当てつけか。
車椅子は私の目の前で止まった。
「葉月」
彼は、私の名前を呼ぶと笑顔になった。
「知り合い?」
真菜が耳元でささやいた。
「……どうして?」
「君を助けるのが僕の役目だからね。死ねないよ」
高らかに笑う彼の声が海に響いた。
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