序 師父のたわ言

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序 師父のたわ言

 外で小雨が降っている。秋なるものの息吹がやってくる。水は冷たく、風は荒く。線は冷たく、波は荒く。  冥府の風は鎌の如く。地に這うものども等しく、熱や、魂を奪っていく。鈴の群れがけたたましく叫んでいる。まるで泥水の中で息絶える人々の無念をその小さく冷たい耳で聞き届けるかのように、上へ上へと水葬される。  その時、わたしは尼院の一室にてブランケットを肩に読書していた。ここの尼が貸してくれた、コウルリッジの『老水夫行』──信天翁を射抜いた哀れな老水夫の歌。  目を閉じれば、瞼の裏に浮かぶ嵐と船、そして氷の国。想像と聴覚がぐるりと混ざり、壁に背中を押し付ける。このまま背後の荒波に落ちていく気がしたが、冷たい隙間風に肌が粟立たせにわかに(うつつ)に戻してきた。 「お前がエヴァンジェリンか」  やにわ響く革靴の音。届いた声は黒い森に苔生す岩のような、とても落ち着いたものであった。  顔を上げ瞼を開くと、ウォルナットの扉の側に背の高い赤毛のスラヴ人が立っている。顔全体にはブナに群がる小虫のように、桑色のそばかすを散らかっている。身体は筋肉質で、特に腕と胸の筋肉がよく盛り上がっていた。  ああ、そういえば先日父が専属の教師を付けると言っていた。そう、それゆえわたしは半ば直感的に、彼か件の教師なのだと理解することができた。  男は扉の上枠にぶつかるほど大柄なのに威圧感がない、さながら大仏であった。その浮世離れした姿には、──畏れ多いことかもしれないが──東方(オリエント)の魅力を垣間見た気になってしまう。 「イーゴリ・ヤジゲフスキーだ。今日からお前の教師になる」  彼は父の得意先が雇っていた狩人で、あることを条件に無償で雇われていた。  性格はとてもぶっきらぼうだが悪人ではなく、決して賢くないわたしの勉学に顔色一つ変えない。また晴れた日にはわたしを北のウマ牧場に連れて行き、そこで馬術を教えてくれた。  初めて触れたウマは細くしなやかなサラブレッドではなく、大柄で逞しいクライズデール種であった。ほんの数年前、スコットランド・ラナークシャーで生まれた種という。 「お前の祖たる魔女たちは、ウマと深い縁を持っている。見ろ。こいつは臆病な個体だが、お前を恐れていない」  わたしよりずっと大きな栗毛のウマは、挨拶の代わりに頭を擦り付けてきた。わたしも細長い額に口を付けると、彼も嬉しそうに嘶いてくれた。 「ところで魔女とは」  わたしはウマを撫でながら問うた。イーゴリ先生は見た人の先祖が視えるという。 「その昔、東に存在した遊牧の民の神壇から勝手に剣を抜いた女がいた。剣とは今もお前の家に保管されてるものだ。お前は彼女の末裔で、いずれその罪を償う、あるいは雪ぐ宿命を持つ」 「……意味がよく分かりません」  主と違って、わたしは身に覚えのない罪を被せられるなどまっぴら御免である。  正直に告げると、彼はこちらを見ることもなく淡々と答える。 「神は時に天災となる」 「グノーシス主義ですか?」 「今は知ろうとしなくていい。いずれ来る日を待て」  作り話にしては下らないと思うが、彼の口ぶりは童話の老婆のような、あたかも未来を知っているかのようであった。  それからこの奇譚について、わたしは多くを問うことはなかった。変人がよく言うたわ言だろうと思って──それでもただ彼の言う通り、古い両刃剣だけは大事にした。
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