特訓

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特訓

令和2年(西暦2020年)2月22日。 土曜日。午後。 中学でバスケットボール部の顧問をしている弘和さんは、お昼過ぎ、家に帰ってくるなり私に着替えをさせ車に乗せ、河川敷に連れ出したのだった。 そんなわけでジャージ姿の私たちは、今、だだっ広い緑地の中を歩いている。あっちの方に凧揚げをしている親子。 こっちの方にサックスを吹いている若い男性。 2月の川風が冷たい。寒い。寒いの嫌い。 「まだいいのに。先の話だよ、お祭り。よりによってこんな真冬の河川敷」 「他の人の足引っ張ってんだろ。ちゃんとやろうよ。俺、覚えたから、サイレントマジョリティー。えっと、このへんでいいかな」 確かに私は、同じステージに立つメンバー、学芸員の南田さんと受付の寺本さんの足を引っ張っていた。暇のある時に三人で練習するのだけれど、どうしても、私はリズムに体が合わない。 弘和さんは、小さなスピーカーを芝の上に置き、スマホの動画を私に見せた。 「平手の役は?」 「南田さん。私と寺本さんは脇」 「わかった。この曲の踊りって、半分ぐらい静止してるよね。しかも同じパターンが多い。俺、20分位で覚えたよ。留美、どこができないの?」 「その言葉が私の心を深く傷つけているのをご存じですか?」 「あ。ごめん。すいません。どこでしょう、できないの。親切に教える」 「あのね。初めの所。こう、手を胸に当てて、跳びながら少しづつ前に進む」 「ホントに初めの所だあ」 「初めの所って言ったじゃん」 「わかった。じゃ。始めよう」 そして、やがて夕日が川の向こうに。 私は弘和さんの指導の下、サイレントマジョリティーを3分の2位覚えることができたのだった。疲れた、寒かった。でも、助かった。私たちは車に戻り、暖房を入れ、あたたかい缶コーヒーを飲みながら今日のことを振り返った。 「また来週、やろうよ。それで全部できるようになる」 「うん。今日は、ありがとう」 「竹ってさ。すごいよな」 「何、いきなり」 「120年に一度開花って。結局人間なんかより長生きってことだよね」 「ああ。うん」 「前の開花の事を知ってる人間が誰もいない」 「うん。あのね」 私は今回のことを機会に竹について少し調べたのだった。 正確には、竹は種類によって開花の周期が異なる。60年周期のものもあるが、いずれにしても長命は長命だ。 大沼市にある竹はほぼすべて真竹という種類で、120年周期。因みに、竹は一つの竹林が一株。根ですべてがつながっている。 寿命120年のまさしく巨大な一体の怪人。 「偉大だな。竹。ね、留美、竹の花って、見たことある?」 「本物は見たことない。広報の写真だけ。地味な花だよね。花に見えない」 「俺、学校の課外授業に付き合って見た。こう、鈴なりに垂れ下がっててさ」 「そう。竹はイネ科だからね。米と同じ」 「ああ。そう言ってたな」 窓外の空が夕焼けに染まる。きれいだな。 「留美、うまくいくといいな。祭りの本番」 「うん」 「問題はただひとつ」 「うん。コロナ。昨日、小池知事が発表してたね。屋内イベントの中止」 「東京の話だよな。うちの県じゃまだ一人も発症してない」 「どうなるんだろ、これから」 「な」 私たちは窓の外を黙って見つめた。コロナでもコロナじゃなくても、窓外では美しい夕焼けがみるみる広がっていくのだった。
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