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高林颯に出会ったのは、今から五年前。彼が大学二年、私が専門学校の一年生の秋だった。友達がバイトしてるカフェが人手不足になって声を掛けられ、ホールスタッフの一員になった。
いつも集団でやって来る大学生たちがいた。決まってテラス席を独占して、みんなで勉強したり雑談したりしていた。男女の割合は半々くらい。颯はいつも男女問わず囲まれていた。
「抹茶オレとハムサンド。マスタード多めで」
颯はいつも同じものを注文した。周りにいる女の子たちよりもずっと綺麗な顔立ちに、低く落ち着いた声。私の心の真ん中に、颯はストンと落ちてきた。気がつくと私の心は颯によって独占されていた。バイトの時は扉が開く度に彼の姿を期待する。バイトへ向かう途中は、彼のことばかり考えていた。きっと、一目惚れだった。
二人きりで話すチャンスは意外と早くやってきた。バイトを始めてから二か月目。その日は突然空が暗くなり、雹が降り始めた。大学から帰る途中だった颯が店に入ってきたとき、買い出しに出かけていた店長は不在でほかに客はいなくて私だけだった。
「今日はお一人なんですね」
「別にいつも一緒に行動してるわけじゃないから。寧ろ一人の方が楽なんだけどね」
「ご注文は…、抹茶オレとマスタード多めのハムサンドでいいですか?」
「そうだけど…驚いたな。注文覚えてるんだ。みんな覚えてるの?」
「そういうわけじゃないです。覚えてる人もいれば覚えてない人もいます」
あなたは特別です。とはさすがに言えなかったけど、思わずじっと見てしまった。だってこんな風に近い距離で二人だけで話せるチャンスなんて二度とこない気がしたから。
「ハムサンドお待たせしました」
「どうも」
二度とこないチャンス。そんな気持ちが、私の勇気のスイッチを押した。
「あの、お聞きしていいですか?」
「ーーー何ですか」
「お名前を教えて頂けますか」
「どうして?」
「はい?」
「接客するのに俺の名前要る?」
「あの…、すみません。私が個人的に知りたいだけです」
「そっか。よくいるんだ。そういう人。大学前で待ち伏せしてる女子高生とか。どうせ君も俺がどこの大学か知ってて近づきたいだけでしょ」
吐き捨てるように言った彼の表情は、目つきがすごく冷たかった。軽蔑されている気がした。
「どこの大学かは知りません。本当です」
「ふうん。そうなんだ」
そう言ったきり何も話さない彼との空気に居た堪れなくなった。名前を教えたくもない。そう思われたんだ。私は。
「お時間取らせてすみませんでした。抹茶オレ、持ってきますね」
じんわりと涙が滲んで、どこかへ消えてしまいたいくらい恥ずかしかった。でもお店をお客さんだけ残して居なくなったら大問題だ。そこまで非常識な人間にはなりたくないから我慢した。
「抹茶オレお待たせしました」
テーブルに置く手が震えてしまいそうになった。冷静に、冷静に。大丈夫、大丈夫。頭の中はその繰り返しだった。
「ちょっと待って」
「はい…」
「高林」
「はい?」
「俺の名前。高林颯。ちなみに大学はここから徒歩十分。日本で入るのが一番難しいって言われてるらしいけど」
「どうして教える気になったんですか。さっきはあんなに嫌がってましたよね」
「いや。決めつけて悪かったなと思って。今まで散々この店来てたけど、聞かれたのは今日が初めてだったなと思って。変なやつだったらとっくに聞いてきてたかなって」
淡々と語る彼に、よっぽど今まで嫌な思いをしてきたのかもしれない。だったら悪いことをしてしまったなと思った。でもそっか。タカバヤシソウって言うんだ。ソウ。何かクールな感じ。彼の印象にぴったりだ。
「私もすみませんでした。嫌な気持ちにさせてしまって。でも悪用しようとか本当そんなんじゃなくて。ただ知りたかっただけで」
「うん。君は何かそんな感じする。思考回路が単純ぽいよね」
単純て言葉を言われたら怒るのが正解なんだろうけど、難しいことを考えるのはあまり好きじゃないし、多分当たってる。それに信じてくれたことの方が大事だし、嬉しい。
「あまり難しく考えたくないんです。私」
「いいんじゃない。それで。そうだ。俺は名乗ったんだから、君だって名乗らないとフェアじゃないよね」
「上原陽菜です」
「上原さんなんだ。了解」
この日を境に颯とは時々話すようになった。不思議なもので、それまでは全然なかったのに偶然駅で会えたりもした。段々と颯は私に対してくだけた態度で色々なことを話してくれるようになった。連絡先も交換した。そんな風に時間を重ねて玉砕覚悟で告白したら、陽菜と付き合ったら毎日面白そうだから。という理由でOKの返事をもらった。
付き合い出して私は、知らなかった颯がまだ沢山いたことを知った。日本で一番頭の良い大学の中でも颯は天才と呼ばれていて、多方面のすごい人たちから期待されていること。颯は料理がすごく上手で何でも作れること。スポーツも出来そうな雰囲気だけど、基本インドアで実はあまり体力はないこと。車の免許を持っていて、時々レンタカーを借りて一人でドライブに行くのが大好きなこと。それから、颯を狙う女性は大学内にも社会人にも女子高生にも沢山いすぎること。浮気を心配したこともあるけど、途中から心配することをやめた。颯から『浮気する時間はもったいないし、バレたら面倒くさいなら始めからしなければいいし、そもそも浮気したくなるなら陽菜をもう好きじゃないということだから別れてからそっちと付き合うし』という話を聞いたからだ。
私にとって、颯は非の打ち所がない自慢の彼氏だった。だから色々な人たちに紹介した。友達からは羨ましがられたし、家族からは絶対離すんじゃない。結婚まで持っていけ、と言われた。もちろん私だってそのつもりだった。何の問題も私たち二人の間には存在しないと思って安心しきってた。
だから、突然訪れた颯からの別れの言葉に私は絶句した。
ーーー私はいつも颯に完璧な彼氏を求めていたのかもしれない。颯から何も求められないことに私自身は胡座をかいて、何一つ努力なんてしなかったのに。
◇◆◇◆◇◆
颯と別れてから六年の月日が経った。専門学校を卒業後美容室に就職し下積みを重ね、メイクアップアーティストとしてデビューした。ラッキーなことに、私が雑誌で担当したモデルさんが女優として大ブレイクし、私の名前をテレビや雑誌で話してくれたおかげで私は個人で仕事をしていける身分になった。忙しい毎日を過ごし、一流の世界の人たちと会話をしたり時間を過ごしていて、時々ふと思うことがある。
ーーーいまの私だったら、颯に認めてもらえるかな。
颯と別れてから、何人かの人と付き合った。でもどうしても、颯と比較してしまって長く続かなかった。そしてわかった。私は颯がエリートだったから好きだったわけじゃない。もちろんそういう一面は颯という人を語る上で外せない要素ではあったけど、いつも自分にも他人にも正直で真っ直ぐな颯のことが大好きだったんだ。
「お疲れ様です。陽菜さん、良かったらこの後一緒にご飯行きませんか?」
彼女は国内外で活躍している一流モデルだ。男女問わずファンが多い。裏表のある人も多いこの業界で、竹を割ったようにさっぱりしている彼女みたいな人は貴重だと思う。だから私も彼女とは上辺だけじゃなく仲良くしている。
「いいわね。琉璃ちゃんのおススメのお店?」
「とびきり美味しいお店、見つけたんです。ちょっと古い店なんですけど。もしそういうの苦手なら違うお店にしますけど」
「全然平気。私、味重視だから」
「そう言うかなって思ってました」
琉璃ちゃんに案内されてついたお店は、古びた赤い看板が長い年月を感じさせるラーメン屋だった。暖簾をくぐる前に、琉璃ちゃんからメニューはなく、席に座って黙っているとラーメンを置かれるから喋らないで静かに食べてくださいと教えられた。昭和の頑固一徹親父風なご店主を想像しながら、暖簾をくぐる。カウンターの中にいるご店主が振り向いて目が合った。
「ーーーえっ?」
思わず声が出たのは、そこに私がずっと会いたかった颯の姿があったからだ。
色々話したいこと、聞きたいことだらけな気持ちを押し込んで琉璃ちゃんに言われた通り黙って静かにラーメンを食べた。颯の作るラーメンは魚介だしベースで、澄み切ったスープは上品な味がした。私は一口ひと口を、大切に食べた。颯が同じ場所にいる。それだけでとても嬉しかった。
琉璃ちゃんと別れたあと、颯の店が見えるカフェで颯の仕事が終わるのを待った。でもカフェの方が先に閉まってしまい、寒い中、外に立ち待った。深夜一時、店の灯りが消えて颯が店から出てきたところを声を掛けた。予想していたのか颯は驚いた顔一つせずに私の顔を真っ直ぐに見た。
「久しぶりだね」
「久しぶりって…。そういう感じじゃないだろ」
「そうかな。私はずっと颯に会いたいと思ってたから。久しぶりに会えたなって感じ。元気だった?」
「それなりにな。ーーー陽菜の活躍はテレビ観て知ってるよ。良かったな。成功して」
「ありがとう。ーーー颯は?」
「俺が何?」
「颯は何でラーメン屋なんてしてるの?」
「なんてか。別に。好きだからだろ」
「だって颯は」
「俺が何だよ」
「颯は将来、日本の科学界を背負っていく人だって、みんな言ってたじゃない。なのに何で」
「そんな時もあったかもな」
「もしかして大学やめたの?」
「いや。卒業したよ」
「就職は?」
「しなかった。どこにも」
「どうしてそんな」
「勉強は好きだった。でも仕事としていくのは嫌だったし、この店を潰したくなかったから。それが理由」
「ごめん。ちょっとよく分からない。このお店を潰したくないって誰かに頼まれたの?」
「違う。俺がしたくてした。このラーメン屋に時々一人で食べに来てたんだ。腰の曲がった爺さんが一人でやってて。よく話してた。それでもう体力的に限界だから店を閉めるって話になって。だったら俺に継がせてって言った。それだけだよ」
淡々と話す姿は相変わらず颯だった。でも私は全然知らなかった。
「いつからそんなこと考えてたの?」
「大学三年の秋過ぎかな」
「それって…」
「陽菜と別れる前だった」
「もしかして、私と別れたこと、関係してたりする?」
話す度に吐く息が白く舞い上がる。颯と私の間をまるで遮るみたいに。
「今さらだから言えるけど、別れようと思ったのは卒業してラーメン屋になろうと決めたからだ」
「そんなことで?だったら話してくれれば良かったのに。だって颯、あのとき言ったよね。私は求めるだけだって。あれから私、本当にずっと反省して悩んで。なのに酷いよ」
六年前、心あたりがありすぎて颯の前で泣くのは違う気がして泣けなかった涙が、今になって落ちてきた。それなら別れる必要なんて、どこにもなかったのに。
「酷い?そんなこと?陽菜がそれを言うの?六年前も今も、俺は思ったことしか言ってない。陽菜はいつも誰かに俺のことを自慢してた。陽菜にとって、俺はアクセサリーみたいなものだったんでしょ。だから相談なんて出来るわけないし、したくもなかった。こんな選択、陽菜には受け入れられるわけないと思った。陽菜が求める俺でいられなくなるなら、別れるしかないと思った。だから俺は間違えてない」
初めて聞いた颯の心の叫び声に、胸が切り裂かれるように痛い。六年前、傷つけられたのは私だと思っていたのに、ずっとずっと私の方が颯を傷つけていたなんて。
「ごめんなさい。ごめんなさい。今さら謝っても許してもらえないだろうけど…。颯にそんな想いをさせていたなんて本当にごめんなさい。私、確かに颯が彼氏なこと自慢だった。でも違うの。颯のこと、人に話すときは分かりやすい部分を話していただけで、私が颯を好きだったのは、それだけじゃなくて。颯のいつも正直で誰にも嘘をついたりしたい強さに憧れてたし、大好きだったんだよ」
「そうか。全部今さらだけど、陽菜の気持ちは分かった。俺の方こそごめんな。最後、酷い言葉で陽菜を傷つけた」
「ううん。私がそうさせてしまったんだから謝る必要ない。それに…事実だったから。颯にばかり求めて自分では何も努力してなかったから…。うん」
颯と目が合った。さっきまでの鋭い目つきじゃなくて優しい瞳。まるであの頃に戻ったような気がする。
「話せて良かった。寒かっただろ。ごめん。いまどこに住んでるの?終電もうないよな。送ってく」
「ううん。大丈夫。タクシー呼ぶから」
「ーーーそっか。その方がいいな」
「うん」
「じゃあ」
「うん。颯?」
「何」
「また食べに来るから」
「了解。店では何も話せないけどな」
「分かってる。頑固一徹親父だもんねー」
「まあ、そうだな。じゃあ、気をつけて帰れよ」
「うん。ーーーじゃあ、また」
「ああ。またな」
笑顔で颯に手を振る。ねえ、颯。また私、あなたに片思いしてもいいかな。また恋を始めてもいいかな。前よりずっと恋をしてるよ。真っ直ぐで正直で、かなり不器用なあなたに。
(end)
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