『コロッケ』

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 空が橙に変わる秋の夕暮れ。私は仕事を終えてスーパーへ向かっていた。買い物カゴを提げて店内を歩いていると、お惣菜コーナーで男の子がお母さんの手を止めて立ち止まっていた。 「お母さん、今日はコロッケがいい!」 「本当に好きね。夜ご飯もう買っちゃったけど。しょうがない、じゃあ一個だけね」  飛び跳ねる男の子と呆れながらも微笑む母親の後ろをさらりと通り過ぎてレジへ向かう。  年月がいくら流れても、愛海を忘れたことは一度もなかった。  何も無くなった私は仕事と家を探した。もちろん風当たりは強くて直ぐには上手くいかなかった。ニートの大人を受け入れてくれるオーナーはおらず、社会から退いた元主婦を正社員で雇ってくれるところも少なかった。  連絡が返ってこないことも多く、来ても何度も断られて、面接や不動産では嘲笑された。  離婚が成立して、年に一度は愛海に会えるか申請したが、義母が頑なに断ってそれも叶わなかった。 「あなたの身勝手でマナちゃんは辛い思いをしたのよ。ようやく忘れていってる頃なのに、どうしてあなたはそんなに無神経なの?」 「もう連絡をしてこないで」と言われて、私の中でようやく諦めがついた。  度重なる心苦しい思いをしたが、それは私に向けた罰だと飲み込んだ。  友人や親戚の家を転々としながらようやく仕事が見つかったものの、やはりブランクのある社会に馴染むのにはそれ相応の時間がかかった。  その際に私に好意を寄せてくれる男性もいた。彼は真摯で、一緒に時間を過ごして幸せに感じる瞬間もあったが、どうしても私の心が許せなかった。誰かと居ることに拒絶を覚えていた。    スーパーを出る頃には日が沈みかけて、空は太陽の眠りと月の目覚めの魅惑なグラデーションと化していた。  秋はいつの間にか景色が変わる。植物や空が色濃くなったかと思えば、すぐにモノトーンの寂しい冬に変わる。だからこそ愛おしい。終わらないでくれと願いながら、その儚げさに感嘆する。  私にとって愛海は秋な気がした。  家に着いた時にはすっかり暗くなっていた。日が沈むと涼しげだった空気はぐっと冷える。急いでマンションに入ろうとしたその時だった。 「あっ!」  マンション前に設置された自動販売機の前の人影がこちらを向いた。トレンチコートに栗色のパンツ。背は私よりも少し高めのすらりとした人だった。なのに、どうして……。  音もなく瞳に溜まった涙をこぼす私の元に、彼女は近づいてきた。目を背けたいのに離せられない。 「久しぶり、お母さん」  目の前の女性の微笑に、微かに、しかし確かにあの頃の愛海の姿が重なった。  なんで——。  問う前に柔らかな温もりが私を包み込んだ。愛海の胸に私の体はすっぽり収まっていた。 「私、気づいていたよ。お母さんが苦しんでいたこと」  耳元で囁く愛海の声にじっと聞き入る。大人の声になった。 「初めはお母さんの笑顔がぎこちなかったり、急に涙浮かべたりってくらいだったけれど。お母さんが居なくなって、私も成長していく中で、お婆ちゃんやお父さんとの関係とかに気づいていったの」  力強いのに安心する締め付けに心が溶けていく。精一杯元気なふりをしていたが、無駄だったようだ。 「私、あなたのこと、愛海のこと」 「あのままだったらお母さん、いつか本当に壊れてたと思う」  愛海の優しい声一つひとつが強張った心に温かな雫を垂らす。乾いた手を恐る恐る彼女の背中に持っていく。 「それでも私は自分を優先してしまったの」 「そりゃそうだよ」とからりとした声が響いた。驚いて離れると、愛海は存外しっかりとした視線を向けていた。 「自分のことで精一杯の人が、周りのこと考えられるわけないじゃん。だから、お母さんのことこれっぽっちも責めてないよ」  そうだ、と愛海はポケットに手を突っ込み、中から缶のポタージュを渡してきた。 「あの日も震えていたよね。あれ、寒さのせいだけじゃなかったでしょ」  受け取るとまだ缶は温もりを帯びており、冷えた手をじんわりとほぐしてくれた。  お母さん、と呼ばれて顔を上げた。目の前の愛海はくすりと笑って口を開いた。 「一緒に暮らさない? 私と」  突然のことに驚いて一瞬金縛りかの如く体が硬直した。代わりに愛海が話し続ける。 「お父さん、再婚したんだ。そしたら今度は私が居心地悪くて。それに私、今年で十八になったんだよ。お父さんにもお婆ちゃんにももちろん感謝しているけれど、これからの人生は自分で決めたい」  背にした自動販売機の光のせいでよく顔は見えないが、確かな眼差しが私に向けられていた。 「お母さんと一緒に過ごしたい」  私は静かに泣きながら、ただ首を縦に振ることしかできなかった。自分のせいで手放した愛海が、自分の意思でやってきた。  あっ、といつのまにか隣にやってきていた愛海は私が提げているエコバッグの中を覗いている。何を見つけたのかは見ずとも理解できた。この女性は間違いなく私の娘だ。 「美味しそうだったから、ついね」  私が取り上げた茶袋はまだほんのり温かい。スーパーで見かけた親子が離れず、最後に引き返して買ったのだ。 「私の大好物だ」  目を輝かせる姿に感銘を受ける。あの小さな子がそのまま目の前に現れたような気がした。 「家に帰ろうか。さすがに寒いわ」 「そうだね」  私たちは並んでマンションのエントランスに入った。  不揃いの足跡が時折重なるように鳴り響いた。  
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