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「今日のお弁当は愛海の好きなコロッケが入ってるよ」
風で傾いた帽子を直していると、愛海の顔がぱっと上がった。
「ほんとー!」と輝かせる愛海の眼をどうしても直視できない。
いっそ、このまま連れ去ってしまおうか。私だって社会経験がないわけではない。それに人に頼ればどうにかして愛美を育て上げられるのではないか。
「どうしたの、ママ」
首を傾げる愛海にううん、と言ってからそっと自分の胸に引き寄せる。抵抗もなくするりと収まった温かい体をぎゅっと抱きしめた。
どうにかしてではいけないのだ。愛海に大人の勝手で苦労だけはしてほしくない。この子はもっと幸せになるべき存在。
苦しむのは、私だけで十分だ。
寒空の下、私は愛海を抱きしめていた。二人の白い息が交互に、次第に重なるように昇っていく。
いつまでもこうしていたいが、そろそろ幼稚園が始まる。
きつくしていた腕を緩めると、頬を桃色に染めた愛海がきょとんとしている。
「どうしたの、愛海」
「ママこそどうしてふるえているの、さむい?」
はっと自分の手元を見れば、手全体が小さく震えている。空になった手を見つめていると次第に視界が潤んでくる。
私はぱんっと両手を合わせて、その間に息を吹きかける。
「そうね。まだまだ寒いから、ママの手悴んじゃった」
愛海は一瞬難しそうな顔をして、それから自分の手を私の甲に重ねた。その小さな手は私の甲でも持て余していた。それでも汗で湿り気のある手から確かな温もりを感じて、私は静かに泣いた。
「どう? あったかい?」
嬉しそうに聞く愛海に頷き、今度は愛海の小さな手を握ってあげる。この子が幸せでいられますように。ありがとうとごめんねを何度も唱えた。
「マナちゃーん」
同じうさぎ組の女の子が門前に立つ愛海を呼ぶ声が聞こえた。
「あ、カナちゃん!」
不意に私の手中から愛美の手は抜けて、彼女は駆け足でカナちゃんに向かっていく。愛海とカナちゃんはくすくすと楽しそうに笑って園内へと入っていく。
二人の小さな背中を見つめていると、突然愛海が振り返ってきた。はっと胸が締め付けられる。
「ママおしごとがんばってね。またね!」
もう何を言われても堪えきれなかった。二人が見えなくなって私は踵を返した。肩で息をして、肩でも息ができなくなって私はその場に座り込んだ。そして声を押し殺すように咽び泣いた。
今日、あの子が帰った時、私はもういない。あの笑顔を私は壊してしまった。しかし、他にどう足掻いても結果は同じな気がした。
灰色の空から、しとしとと静かな雨が降り注いだ。
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