砂漠の中で

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砂漠の中で

 ーーお前は俺たち夫婦二人の希望だよ。  いや、……の希望だ。    *** 「うわっ! ……っぶねえ!」  山内高斗(やまうちたかと)は大きく右にハンドルを切った。そしてブレーキを踏み込む。  車は大木にぶつかって止まった。ぶつかると言っても軽くだ。舗装された道路から外れた地面は砂だらけだったのでスピードが減殺された。 「危なかったな、くそう」  高斗はハンドルに顔を突っ伏す。グレイのバンは木に頭から突っ込んでいる。  ついてない。木などまばらにしか生えていないのに、何故この低い確率でぶつかるのか。  そんなことをぐちぐち心の中で呟いた。が、思い出してはっと身を起こした。  轢いちまってはいないよな?  ドアに手をかけ、勢いよく開ける。  道路の中程を見やると、昼下がりの青い空の下、人影が蹲っているのが見えた。 「大丈夫ですか!?」  走り寄る。その途中で声が聞こえた。 「ごめんなさい!」  若い女の声だ。近づくにつれ、彼女は大きなリュックを背負って地べたに尻餅をついているのが見て取れた。  外国人か?  髪の色が茶色なのは日本人でもよくあることとして、瞳が青みがかっている。 「本当に驚かせてごめんなさい」  しゃべり方は流暢だ。日本人の顔にも見えなくもない。まあ、どっちでもいいかと高斗は考えるのをやめた。それよりも謝られて居心地が悪い。 「いや、謝るのは俺のほうなんで……」  低姿勢な彼女に若干戸惑いながらも、大声で返事をされたことに安堵する。どうやら大怪我などはしていなそうだ。それもそのはず、ぶつかった感触はしなかった。  彼女の目の前まで辿り着くと、高斗は跪いた。 「怪我とかないですか」 「大丈夫です! ちょっとぼーっとしてて」  彼女はぶんぶんと大きく首を振った。その拍子に、髪から砂がはらはらと散らばった。  あー、これは砂嵐に巻き込まれたかな。  高斗は眉を寄せた。  二千二百二十二年。  数百年ほど前から始まった環境破壊で、地球はどんどん砂漠化が進んでいた。高斗の住むここ日本も例外ではない。以前は「東京」という場所が首都だったらしいが、そのあたりは全て砂漠と化した。それ以外の地域も海岸沿いは砂漠化が進行している。  砂漠の中にオアシスの街が点在する。が、そこも砂漠になるのは時間の問題だろう。政府機関はまだ緑が豊かに残っている山奥に分散して移転していた。首都的なものは京都にある。  今二人のいるこの越谷の街も例外ではなかった。ほぼ砂漠だ。道路は舗装されていたが、砂埃がすごい。舗装されていないところはなおさらだ。  そしてそんなこの国では、いや、全世界が砂漠化が進行しているのだが、とにかく砂嵐がすごかった。巻き込まれて命を落とす人も珍しくない。  高斗は腰を上げた。 「立てますか」  手を差し出すと、その手に華奢な手が重なった。  あったかいな。  そんなことを考えながら彼女の立ち上がるのを待つが、彼女はなかなか立ち上がらない。 「あの……?」  声を掛けると、彼女は顔を顰めた。 「……腰が、抜けちゃったみたいです」 「あー……」  高斗はため息をついた。それをどう取ったのか、彼女はぶんぶんと手を横に振った。 「あの! でもそのうち良くなると思うので、もうお気遣いは大丈夫です。行ってくださ……」 「いや、んなわけにはいかないでしょう」  高斗は後ろを向いて背中を差しだした。 「目的地まで送りますよ。背中、乗れますか」  後ろを向いてしゃがみこんだまま待つが、後ろにいる彼女は動く気配がない。  高斗は振り返る。 「あ、別にこんな状況で変な気を起こすとかないので」  とは言っても、信じられないか。  高斗は眉を寄せた。街中ではある程度治安はいいが、一歩砂漠に出ればごろつきどもも多数いる。街から街へと移動する人たちを狙って、金品や体を奪うのだ。  そう言えば、なぜこんな危ない所にこの女はいるんだ?  不可思議に思いつつも彼女の返事を待つ。  すると、彼女はぶんぶんと首を振った。 「いえっ。そういう意味ではなく! あたし、柔道と空手やってて、腕っ節には自信あるんです。インターハイも出たことあります」 「インターハイ!?」  それは、高校生対象の全国規模のスポーツ大会だ。こんな移動が大変な世の中で、そんな大会に出場できるのはごく一部の富裕層だけだった。  なんでそんなお嬢様がこんなとこに一人で。  そう思いつつも高斗は「じゃあ、車乗ってください」と促した。彼女は唇を噛んだ。 「でも、あの、遠いので」 「どこです?」  尋ねると、彼女は一瞬口ごもったが小さな声で答えた。 「……浅間研究都市まで」 「……は?」  高斗は目を見開いた。  ここ埼玉の越谷から群馬の浅間研究都市までは、車でも四、五時間かかるだろう。歩きでは何日かかるかわからない。  高斗の顔を見て、彼女は目を伏せた。 「やっぱり、遠くて無理ですよね」 「いやいやいやいやいやいや」  高斗は大きく手を横に振った。 「歩きでそこまで行こうとしてたんですか? 無理でしょう。むしろ送るしかないでしょうが」  彼女が顔をゆっくりと上げる。やはり困っていたのだろう。  車の方から、さわさわと音がした。  高斗は振り向く。  と言っても、あっちも早く送り届けないと。 「あの、申し訳ないんですが、急ぎの用があってつくば研究都市に行かないといけないんです。だからその後になっちゃうと思いますが、一時間ちょいで着くので」  彼女は目を見開いた。 「そんな! お急ぎのところをお止めして申し訳なかったです」 「いや、それはいいので……」  高斗は途中で言葉を切った。空を見上げる。鳥の鳴き声が聞こえてきたからだ。 「熊鷹かな……」  つられたように彼女も空を仰いだ。  熊鷹は最近増えている鳥だった。いや、熊鷹の進化系というべきか。  従来の熊鷹は全長八十センチほどの鷹だったそうだが、ここ数十年、見かける熊鷹は全長二メートルを超えるものもいる。  研究者の中には今いる熊鷹は、従来の熊鷹とは別物だと捉える人もいる。高斗は難しいことはわからない。ただ、わかっているのは、「絶滅危惧種だった熊鷹が、体長を大きくするという進化を遂げていて、それが絶滅の危機から逃れる方向に進んでいる」ということだった。  高斗は視線を下に移す。 「熊鷹がいますよ。でかそうに見える。危ないですね。滅多に人を襲うことはないけど、早く車に……」  そこで高斗は言葉を切った。  彼女ががたがたと震えていたから。  怖いのか。  彼女の震え方が尋常でないので、高斗は思い切った。 「ちょっと失礼」 「きゃっ!?」  彼女をリュックごと腕に抱えた。  けっこうでかいな。  身長は百七十くらいあるのではなかろうか。百八十の高斗よりは低いが。  彼女は驚いたように手を振っていたが、すぐに落ちないように高斗の首に腕を巻き付けてきた。彼女のボブカットの髪から、砂埃の匂いがした。  高斗は車に向かって歩き出す。  でも、軽い。大丈夫か、これ。  自分の肩のあたりに顔を埋めて震えている彼女を見る。  見ず知らずの女だが、そんな心配をしてしまうくらい腕に掛かる重みは少なかった。  車まであと数歩というとき、高斗は目を見はった。 「え?」  先程の熊鷹が、真っ直ぐこちら目がけて滑降してきていた。  高斗は熊鷹に何度も遭遇したことはあるが、襲われたことはなかった。人を襲うと聞いたことはあったが。  慌ててドアに手を掛ける。その間にも熊鷹は近づいてきている。 「ーー下ろしてください」  静かな彼女の声が耳に響いた。 「は? 何言って……」  が、彼女はするりと高斗の腕から抜け出した。 「おい、待っ……」  彼女は駆け出す。そして数歩で立ち止まった。 「……っ!」  彼女が腕を大きく振り上げる。  どすっと、鈍い音がした。  彼女はゆっくりと振り返る。  高斗は呆然と立ちすくんでいた。  彼女の足下には、嘴から泡を吹きながらばたばた羽を動かして熊鷹が転がっていた。 「まだ生きてます」  彼女はこちらに歩いてくる。 「危ないから、今のうちに……」  その言葉の途中で彼女は再び腰を抜かした。高斗は慌てて駆け寄る。  彼女をお姫様抱っこしながら、高斗は呟いた。 「いや、それ、インターハイとかのレベルじゃねえだろう……?」    *** 「わりと小さな個体だったのでなんとかなりました!」  運転する高斗の横で彼女ーー菊池希望(のぞみ)と名乗ったーーは言った。 「いや、小さくても普通無理だろ。菊池さんすげえな」  熊鷹を見てあんなに怯えていたから、てっきり怖がりのか弱い女性かと思っていたが全く違った。  車は今、つくば研究都市に向かっている。 「さっきの熊鷹、生きてればいいけれど」  希望が呟く。 「まあなあ。最近増えてるとはいえ、絶滅危惧種だからな」  希望は頷いた。 「はい。でも手強い相手だったので手加減したらこっちがやられてしまうから力の限りいきました」 「そうだよな。俺たちホモ・サピエンスだって絶滅危惧種なんだから、死ぬわけにはいかねえしなあ」  絶滅危惧種。数百年前に人間が考え出した生物の絶滅危険度だ。その当時は我々人間ホモ・サピエンスは含まれていなかったらしい。人間の社会活動で環境が破壊されて徐々に個体数を減らしていく動物が増えてきたという。それらの動物を守ろうという活動が起きた。  一部の人間にとっては、それは他人事だったようだ。ある動物がこの世から消えてもそれは人間にはなんら影響はない、と。が、生物の多様性が失われるにつれ、徐々に人間の生き辛さも増していくことになる。  一部の動物たちが消えていったのは人間による乱獲、耕作地の拡大などの社会活動による森林の減少、またそれに起因する砂漠化。  動物たちが住みにくくなっていくと同時に、同じ動物である「ホモ・サピエンス」も住む場所を失っていった。  住む場所や食料が需要に追いつかなくなってくれば、残るのは他の人間から奪うことだ。国家間の戦争が頻発するようになる。第三次世界大戦、第四次世界大戦を経て、ほんの百年と少しの間で地球の人口はほぼ千分の一以下に減少した。戦闘で直接的に命を失った者、飢饉が起きて死んでいった者、様々だ。  世界人口が一千万人を切ったあたりから、ようやく人間は理解した。 「自分たちは絶滅危惧種である」と。  高斗たちの住む日本の人口はおおよそ百万人ほどである。各地に点在するオアシスの街や、山沿いに多くある研究都市に暮らしている。研究都市では、主にホモ・サピエンスを絶滅の危機から救う方策を研究している。 「お。ラッキ-。自販機がある」  高斗は道路の先に小さな箱形の機械をみつけた。幹線道路沿いには飲料や簡易食料を扱う自販機が散見される。砂嵐、洪水などに巻き込まれて食べるものに困った移動者を救うために政府が管理している。 「菊池さんもなんか飲むだろ?」 「あ、えっと。特に喉は渇いてないので」  希望は首を傾げた。  砂嵐に巻き込まれたようなのに大丈夫なのかと思ったが、どこかで水分補給をしてきていたのかも知れない。 「あ、じゃあ俺飲みたいからついでに奢るよ。ていうか、さっきのお詫びで奢らせてくれないかな」 「あ、はい!」  にこりとして希望は答えた。  高斗は車を道路脇に止めた。かくんと車が止まったと同時に、後ろの荷室からさわさわと音がした。  希望はちらっと後ろを見た。後ろには段ボールがいくつか積まれている。 「生き物ですか? 音がしますね」 「ああ。生き物だな」  希望は眉を下げた。 「こんな狭い箱の中じゃ、なんかかわいそうですね」 「ああ、大丈夫。こいつらは……」  言いながら外に出ようとドアに手を掛けて、そして気づいた。 「あれ? また熊鷹かよ。このへん多いな」  上空の空には、大きな鳥影が見えた。近くの山との比較からして二メートルはありそうだから、熊鷹だろう。  高斗は顔をしかめた。 「まあ、かなり遠いしさっきは驚いたけど普通は人間は襲ってこないから……」  希望を振り返ってぎょっとする。  希望は真っ青になってがたがたと震えていた。 「菊池さん?」  なんなんだ。  高斗は首を傾げた。今の今まで元気いっぱいにしゃべっていたのに。  情緒不安定なのか?  そうかもしれない。砂嵐に巻き込まれたのだから。元気そうに見えるのは空元気というやつなのだろう。  けれど、先程の格闘を見るに、希望がこれほどまでに熊鷹を恐れるのが意味がわからない。 「菊池さんは車の中で待ってな。甘いもんでも買ってきてやるから」  笑いかけると、希望はがばりと顔を上げてこちらを向いた。 「駄目です! 車の中から出ちゃ駄目」 「おっと」  希望は高斗を引き留めるように腕にすがりついた。そしてハッと目を見開いて手を離す。それは、失礼なことをしたとか、恥ずかしいとかの様子ではなかった。  現に、希望は今度は高斗の手を取ってハンドルに押しつけた。 「早く! 早く車出して!」 「あ、ああ……」  必死な様子の希望に気圧されて高斗はエンジンをかけた。その間も希望はがくがくと震えている。戸惑いながら高斗は告げた。 「あの、菊池さん。この車特別装甲車だから」  大事な荷を運ぶ車によくある装備だ。銃弾や動物からの襲撃にもほぼ耐えられる。熊鷹が襲ってきても車は無傷とはいかないまでも、中に被害が及ぶことはない。 「だから、そんなに怖がるなよ……」  どうしてやったら彼女が落ち着いてくれるのかわからない。  わからないから、高斗は希望の頭を左手でそっと撫でた。  その瞬間、希望は緊張の糸が切れたように気を失った。    ***  ーーお父さん、お母さん。  希望は自分の声で目が覚めた。  周りは砂埃が舞っていてよく見えない。どうやら地べたにうつ伏せで転がっているようだ。  洞窟?  目の先が明るいから、ここは洞窟の入り口近くのようだ。必死で目を凝らす。  なんで洞窟になんかいるの? ここはどこだっけ。  先程まで自分がいた状況を必死で思い出そうとする。  そうだ、自宅のある大宮研究都市から浅間研究都市に家族で移ろうということになって。それで大宮を出て、北に向かっていて。  砂嵐が襲ってきた。  希望にとって、これほどまでに大きい砂嵐は初めての経験だった。いつもはほぼ大宮の自宅から出たことはなかった。出るのは学校と部活の競技会くらい。  ごほごほと咳をする。砂嵐がだんだんと弱まってくる。  目の前に、人の顔が見えた。 「お母さん……!」  良かった、お母さん、ここにいた。  手を伸ばす。母はふわりと微笑んだ。  次の瞬間、その手は母の手によってはたき返された。 「おかあさ……」  首を少し持ち上げる。そして息を飲んだ。  母の背の上には、巨大な熊鷹が爪を下ろしていた。 「お……」  母の背中から血が滲んでいる。  体が震えて動くことができない。  助けなきゃ、助けなきゃ。今まで見たことあるのの倍以上あるけど、あたしならできる。  指に力を入れたその瞬間。   ぼきり、と音がして、母の首が折れた。熊鷹がくちばしで折ったのだ。  そこからじゅるじゅると熊鷹は肉を吸い上げ始めた。  助けなきゃ。  足を動かそうとする。その足を思い切り引っ張られた。 「……!」  叫びそうになった口を大きな手で塞がれた。 「ここに隠れていなさい」  父の声だった。 「あの熊鷹は体が大きい。ここには入れないから」  その言葉に安堵する。  安堵して、そして安堵している自分に一気に憎悪がわいた。 「でも、おかあさ……!」 「ホモ・サピエンス二体」  泣き声に近い声の希望とは対照的に、父の声は穏やかだった。 「熊鷹の腹を満たすにはそのくらいだ」  希望は一瞬言われた意味がわからず首を傾げる。が。 「ぎゃっ!?」  思い切り首の付け根を千切られて、希望は悲鳴を上げた。 「これは貰っておく」  父は狭い洞窟の中、希望の脇をすり抜けた。 「お、おとうさん……?」  父の手が希望の頭に優しく載る。 「……お前は俺たち夫婦の希望だよ。いや……」  言葉の最後の方はよく聞こえなかった。  父の体が半分ほど洞窟の外に出たところで、一気に飛んでいく。熊鷹が引っ張ったのだ。  希望は目の前で繰り広げられる惨状を、ただただ呆然と眺めていた。  父と母が、ほぼ骨だけになるまで。 「あ。菊池さん、起きたか?」  低い優しい声に、希望は今度こそ本当に目が覚めた。  ここはどこだっけ。  そうだ、山内さんの車の中だ。  ぼんやりとした瞳が焦点を結ぶと、高斗が心配そうな表情でこちらを見ていた。 「すみませ……げほっ」  希望は咽せた。まだ気管支に砂でも残っていたのだろうか。 「ああ、無理しなくていいからな。飲めるか?」  高斗はペットボトルの水をこちらに差しだした。容器が汗をかいているから、先程買ったものだろう。 「甘いのもあるぞ」  高斗が両手でひとつずつペットボトルを掲げてみせる。いちご練乳と濃厚ミルクティーと書いてあった。 「ありがと、ございます」  こてんと頭を下げて、とりあえず水を貰う。  こくりこくりとゆっくりと喉を潤しているのを、高斗はじっと見ていた。 「……何か?」  ペットボトルから口を離して問いかけると、高斗は首を傾げた。 「いや、こんなに熊鷹苦手そうなのに、よく一人でこんなとこ移動してたな、と思って」 「熊鷹が得意な人っていないでしょう?」  冗談めかして笑うつもりが、うまくできなくて顔が強張ってしまった。  あ、この物言い失礼かな。 「あ、あの、これはそういう意味じゃなくて」  希望は弁解しようとするが、全く意に介してなさそうに高斗は言った。 「まあそうだろうけど。熊鷹って食物連鎖の頂点に君臨する森の王者だからな。でも、ホモ・サピエンスは基本その連鎖の中に入ってないだろ。襲われることは稀だ」  希望は目をみはった。 「あたし、ちょくちょく狙われますよ……?」  父と母を失ったあの砂嵐の時だけじゃない。幼い頃からよく熊鷹が希望を目がけて飛んできていた。だから、熊鷹を仕留められるよう訓練を積んでいた。 「え。そうなのか? 狙われやすい人間ているのかな。餌の好みというか。それとも、熊鷹のほうの地域性か?」  高斗は首を傾げている。 「俺はこのあたりは通るだけのことがほとんどだからなあ。菊池さんちこのへんなの?」  希望は頷いた。 「多分。うちから三時間くらいしか歩いてないので。あ、うち大宮なんですけど」 「は? 大宮?」  今度は高斗が目をみはった。 「大宮ってあれだよな。オアシスの研究都市」  大宮研究都市は、砂漠の真ん中にある。ほとんどの研究都市が山沿いにあることを考えると珍しい。 「え? 何かおかしいですか」  希望が尋ねると、高斗は「おかしいっつうか」と頭をかいた。 「方向が違うぞ。浅間研究都市に行きたいなら北西方向に行かなきゃ。ここは越谷のはずれ。大宮の東にある街だから」 「そうだったんですか……」  がくりと希望は項垂れた。危なかった。父母と乗っていた車がこちら方面に進んでいた気がしたのでそのまままっすぐ向かえばどこかの街に着くかと思っていたが。 「いや、それにしても。熊鷹は怖いわ、目的地への道も把握してないわ、なんで行こうと思ったんだ?」  希望は瞬間唇を引き結んだ。 「あ、言いたくないなら無理にとは……」  すぐにそう言ってくれたこの人は優しい人だなと思う。見ず知らずの希望を送ってくれると言っただけでも十分優しいのはわかったが。  希望は口を引き結びながら高斗を見上げた。 「聞いてくれますか?」  高斗はほっとしたように微笑んだ。  この人には聞いて欲しいと、そう思った。が、途中で思い返す。  あの凄惨な出来事をきっと誰でもいいから誰かに聞いて欲しかったのだと、希望は思った。    *** 「あたし、両親と一緒に車で浅間研究都市に向かってたんです」  希望はぽつぽつとしゃべり始めた。 「あの、山内さんて大宮に縁のある人ですか」  言いにくそうに希望が口ごもった。 「仕事上縁があるっちゃあるが、そんなに行ったことねえなあ」  高斗が仕事でよく行くのは、奥多摩研究都市とつくば研究都市だ。奥多摩は、「海の古都」と言われる地球温暖化の影響で今は多くが海に沈んでいる東京にある。そこに滞在することも多いが、主につくばを拠点として生活している。  実家はない。高斗に両親はいない。小さい頃に砂漠の鉄砲水に流されて亡くなった。 「ーー大宮は、もう終わりです」  希望は小さな震える声でそう呟いた。 「終わり?」  希望は頷く。 「失敗したんです。ホモ・サピエンス繁殖計画に」 「繁殖計画?」  なんだそれは。初めて聞いた。  疑問が顔に出たのだろう、希望は説明してくれた。 「ホモ・サピエンスは貴重な種です。計画的に繁殖させなければならないそうです。だから人々のDNAを研究してました。強靱なDNAを持つ者、繁殖に有利なDNAを持つ者。それらはより貴重です。その為、強い者はより強い者とつがわなければならなかったそうです。そして価値のあるホモ・サピエンスは何人もの妻を娶ることができる、いえ、娶らなければいけなくなったのです」 「それは、なんて言うか……」  ここは現代日本なのか?  数百年前から日本という国家は一夫一妻制だったはずである。大宮だけ法改正をしたのだろうか。それともお妾さん、愛人の類いでお茶を濁しているのか。  高斗は首を傾げざるを得ない。それは何か。競走馬の種付けのようなものか。  そこまで考えて高斗は気分が悪くなってきた。  人間だぞ?  希望はこちらを見ながら、こっくりと頷いた。 「一般の人には不快なお話ですよね。でも、こう考える人も多かったんです。『結婚相手に高学歴高収入高身長を求めるのと似たようなもんだ』と」 「まあ、似てるっちゃ似てるが……」  高斗は苦り切った。  でも、男女問わずハーレムを希望する人間もいるかもしれない。  本人が納得してるならアリなのか? 「ナシでした」 「おわっ!?」  思考を読まれたのかと思い動揺すると、希望は「口に出してましたよ」と微笑んだ。 「こんなこと、人権団体が黙ってるわけありません。人間の価値に値段を付けるな、と」 「まあ、そうなるよなあ」  高斗は気持ちを落ち着けようと、先程買った缶コーヒーに口を付けた。 「先日のオークションで、市長の息子の精子は十億の高値がつきました。ゲノム解析で、強靱なDNAが見つかったから」 「ぶはっ!」  若い女の口からさらりと「精子」などという単語が出てきたので、思わずコーヒーを吐き出してしまった。  げほげほと咽せながら、高斗は数年前に立ち寄った大宮研究都市のことを思い出す。  そういえば、他の地域と比べて貧富の差が大きかった気がする。 「でも、だからって大宮が終わりってことにはならないだろ。元通りの生活をしてまた別の研究を始めればいい」  すると、希望は悲しそうに俯いた。 「もう、遅かったんです」 「なんでだよ。胸くそ悪い研究だったし、失敗して良かったんじゃないか? それにどこの都市も様々な研究に取り組んで失敗してはまた別の研究を……」 「テロが起きます」  高斗は息を飲んだ。希望は続ける。 「というか、もう始まっています。大宮の政庁はまだ無事ですが、研究者とその家族には死者が何人も出ています」  そんな事件が起きていたとは知らなかった。奥多摩から越谷までの間を車で通り過ぎているだけでは全く気づかなかった。  高斗が眉を寄せていると、希望は膝の上の手をぎゅっと握った。 「あたしたちは、すんでのところで逃げましたが」 「あー……」  なんで気づかなかった。  高斗は己を殴りたくなった。  インターハイに出たと聞いた時、気づいたはずじゃないか。彼女は富裕層だと。 「えっと、胸くそ悪いってのは言葉のあやで……どんな研究でも真剣に取り組んでいたものが失敗すれば辛いよな」  なんとかフォローしようと必死に言葉を選んでいると、ふいに希望の目から涙が零れた。 「あ、えーとだな! ご両親もホモ・サピエンスの未来を考えて必死で研究してたんだろ。立派だよな!」  まずい。傷つけた。  高斗がおおいに焦っていると、希望はふるふると首を横に振った。 「ちがうんです」  涙声だった。 「同じ研究者以外で、あたしを蔑まなかったのは、山内さんだけです」  高斗は言葉を失った。  辛い思いをしてきたんだろうな。  希望が俯いて手で顔を覆う。その肩は震えていた。  どうしたらいいのかわからず、高斗はその頭をそっと撫でた。 「お父さん……」  小さな叫びのようなものが聞こえ、高斗は思い出す。 「そうだ、ご両親は? 先に浅間研究都市に着いてるのか」  ひくっとひとつ希望がしゃくりあげる。 「すなあらしに……っ、まきこまれて」  嫌な予感がした。 「車、破壊しちゃって、たおれてっ。気がついたら熊鷹が目の前にいて……!」 「喰われたのか」という言葉は胸にしまった。  何を言ったらいいのかわからない。  わからないから、高斗はただ黙って希望の頭を撫で続けた。    *** 「そろそろ行くか」  頭を撫でてくれている高斗が声を掛けてきた。  希望はこっくりと頷く。高斗の手が離れた。  希望はそっと頭に手をやる。  撫でて貰った場所が温かい。 「そうだ、ラジオでもつけるか」  歌うように高斗が言った。それが希望を元気づけようとしてくれているのはわかった。  希望はにこりと笑った。 「はい! あたしつくばに行くの初めてなんです。どんなところかなあ」  声を明るくすれば、気持ちも明るくなってくる。  いつまでも泣いてちゃ、あたしを助けてくれたお父さんとお母さんに申し訳ない。  あたしのことを希望と言ってくれた、お父さんとお母さんの分も、生きなきゃ。  にこにこと笑いながら高斗を見ていると、高斗は言いにくそうに「あー」と言って額を押さえた。 「あんまり無理しないほうがいいぞ。辛い時は特に」  希望は笑顔のまま固まった。すると、高斗は「あ、そうじゃなくてなんて言うかなあ。もちろん、形から入るってのも大事なんだが」とぶつぶつ言っていたが、希望に向き直った。 「なんか、亡くなったご両親の分も頑張らなきゃって必死になってるみたいで」  なんで。  希望は泣きそうになった。  なんであたしの思ってることがわかるの。  高斗は前を向いてハンドルを握った。 「いや、俺が見てて辛いっていう俺の都合だな。悪い。忘れてくれ」 「悪くないです」  希望も前を向いた。 「ご迷惑をおかけしてすみません」  すると高斗は苦笑した。 「いいや。俺みたいな通りすがりの他人に気を使わなくっていい。泣きたきゃ泣いて、笑いたきゃ笑ってろ」  あれ?    希望は胸を押さえた。  何故だろう。  嬉しい言葉なのに、辛い。  確かに「通りすがりの他人」だけど。  希望が自分の心に不思議がっていると、カーラジオが聞こえてきた。 「……次のニュースです。本日午前十時頃。つくば研究都市を中心とする広範囲に激しい砂嵐が発生しました。詳しい被害の状況はわかっておりませんが、家屋の倒壊なども確認されており、行方不明者も出ているもようです」  ニュースは「被害状況によっては、貴重なホモ・サピエンスの個体数が大幅に減少することが懸念され……」と続けられた。  希望は顔をしかめて高斗のほうに顔を向けた。 「心配ですね、山内さ……」 「瞳……」  高斗は真っ直ぐ前を見たまま、硬直していた。  高斗の額には汗が滲んでいる。  ーー誰?  希望が見つめているのに気づいたのだろう、高斗がはっとしたように振り返った。 「悪い。あそこには俺の家族がいるんだ。ちょっと飛ばす」  真剣な目の高斗に押されて、希望は無言でこくんと頷いた。  高斗はそれっきり何も喋らなくなった。ただ真っ直ぐに前を見て車を運転していた。まるで希望の存在を忘れたかのように。  奥さんかな。  希望は思う。  まだあたしより五つ年上の二十五歳だって言ってたけど、結婚しててもおかしくないよね。  希望は知らずに胸をぎゅっと押さえた。  車は先の見えない道をひたすらに駆けていった。  
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