人類と人類

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人類と人類

 車はつくばに向けてひた走っていた。  もどかしい思いで信号が青に変わるのを待つ。高斗は隣で黙り込んでいる希望をちらと見た。  希望は不安そうな表情で真っ直ぐ前を向いていた。 「体調、悪くないか?」  急に話しかけたからか、希望はびくりと肩を揺らした。 「いえっ。もう元気いっぱいです!」  胸の前で握りこぶしをぶんぶんと振る。その様子にふっと笑みが漏れる。 「あとちょっとで着くからな」 「……はい」  希望の表情は何故かより不安そうになった。  それを不可解に思いつつも、信号が青になったので高斗はアクセルを踏み込んだ。  森を抜けるとつくば研究都市だ。  高斗は胸がうるさくなるのを堪えながらカーブを曲がった。 「あ……」  思わず安堵の声が漏れる。  目の前に開けているのは都市の建物群。どうやら家屋の倒壊というのはそれほど大規模ではなかったらしい。  が、まだ安心はできない。皆の無事をこの目で確認するまでは。  このあたりは四、五階建ての建物が多い。研究施設だ。昔は数百メートルもある建造物もあったらしいが、今の日本にはそれが必要なほどの人口もなかった。  研究施設群を抜けて小さな川を渡る。 「着いたぞ」  高斗は横長の大きな家の前で車を止めた。ぷすんと嫌な音を立てて車は止まった。 「ちょっと家ん中確認してくる。すぐ戻る。菊池さんは待ってていいぞ」  軽く微笑みかけながら声を掛けると、希望はもじもじとした。 「どうした」 「あ、の。一応お世話になったのでご挨拶をしたいかなって」 「ああ」  義理堅い子だなあと感心しつつ、高斗は「じゃあ、着いてきて」と希望を促した。 「高斗!」  車から出てすぐ、大きな声がした。その方を振り返る。 「瞳……!」  住居の隣の畑の中程で、瞳が大きく手を振っていた。高斗は駆け寄る。 「えっ? ……えっ!」  後ろで希望が驚いたような声を上げた。 「瞳、無事だったのか。ラジオでつくばが砂嵐に襲われたって言ってたから」  瞳は豪快に笑った。 「はっはっはっ。大丈夫だ。やられたのは電波塔だけだ。俺たちの街はほぼ無傷だ」 「あー、電波塔な。だから被害状況が伝わらなくて大袈裟になってたんだな」  希望がとことこと歩いてきた。 「あ、紹介する。菊池さん、こいつ松山瞳。俺の兄貴分だ」 「男のヒト……」  希望は呆然とした様子で呟いたが、すぐにハッとしたように頭を下げた。 「はっ、はじめまして! 菊池希望と申します!」  高斗は瞳を見て希望を手のひらで指し示す。 「て、ことで。こちら菊池希望さ……」  高斗の言葉は途中で止まった。  瞳は目を大きく開けて希望を凝視していた。 「瞳?」  首を傾げると、瞳はゆっくりとこちらを振り向いた。 「お前、珍しい人間を連れてきたな」 「は?」  なんだその物言いは。菊池さんに失礼だろ。  そう言おうと口を開きかける。が、その前に希望が息せき切って話し出した。 「す、すみませんっ。実はあたし、道の途中で山内さんに助けてもらって。それで、山内さん親切だからあたしを送ってくれるって……」 「あー、違います、違います」  瞳は手を左右に振って頭をかいた。 「すみません。迷惑だとかそういう意味じゃないです」 「じゃあどういう意味なんだよ」  不快感を露わにしながら高斗は難じる。 「いや、お前が女連れってのが珍しいって意味だ。お前も二十五にしてやっと女っけが出てきたと言うわけか、という意味だ」 「詳しく言わなくていいんだよ!」  瞳はくるりと希望に向き直る。 「どうですか?お急ぎじゃなければお茶でも出しますよ」  希望は戸惑ったように口をもごもごさせた。 「菊池さん、時間ないなら無理しなくていいぞ」  助け船を出す。  これから高斗はここから少し離れた研究施設に段ボールを引き渡しに行かなくてはならない。春で日が長くなったとは言え、浅間に着く頃には日が暮れるだろう。  希望はこちらをちらっと上目遣いで見た。そのほんのり赤い顔に、高斗は一瞬みとれた。 「いえ。むしろ、申し訳ないなって。でももしよければごちそうになってもいいですか?」 「お茶のひとつでそんなに恐縮されたらこっちが恐縮ですよ。じゃ、ささ、中にどうぞ」  瞳が希望を玄関に誘った。 「じゃあ、俺先にこれ届けてくら。菊池さんはゆっくりしてて」  向かう先の研究施設は都市の外れ。目と鼻の先だ。 「行ってらっしゃい」  希望がにっこりと笑いながら手を振ってくれた。  それが、何か家族のようなものを思い出させた。  わずかに照れくさい気持ちで、高斗は車に乗り込んだ。 「ん?」  エンジンがかからない。  おかしいなと思ってエンジンボタンをもう一度押す。エンジンはシャラシャラとうっすらと回転しているような音を立てるだけだ。  車のほうに瞳が近づいてきた。 「おーい。お前この車どっかぶつけたか?」  窓を開けて答える。 「さっき木にぶつけたけどな。ほんと軽くだぞ。そのあと普通に走れたし」  眉を寄せて答えると、瞳は考え込むような顔をした。 「ライト、なくなってるぞ」 「は!? マジでか!」  慌てて車から飛び出す。確かにライトのあった場所が空洞になっていた。何かの線だけがぷらぷらと揺れている。 「どっか落としてきちまったのかよ……」  木にぶつかった後、車から出る時も再び乗り込む時も、焦っていたのでライトの状態まで見ていなかった。どこかで落としたのだろうがラジオを付けて高速で車を飛ばしていたから全く気づかなかった。  この車はライトがないと危険防止の為動かないようになっている。ライトはただのライトではない。砂埃の中でも見やすくなるような光線が出るようになっているのだ。  そんな大事なもん、簡単に外れる仕様にしとくなよ! なんの為の特別装甲車だよ。 「まず、茶でも飲むか?」  瞳のその提案に、高斗は無言で頷いた。 「あ。はい。申し訳ありません。……大丈夫です。ありがとうございます」  高斗は電話を切った。スマホの画面が黒くなるのを見届けてから、視線を横に移した。 「大丈夫でしたか?」  希望は半泣きだ。自分のせいで車が壊れてしまったと思っているのだろう。  高斗は希望を安心させるように笑った。 「大丈夫だ。すぐ研究所の職員が車で回収に来てくれるってさ」 「良かった……」  ほっとしたように希望が笑ってくれ、つられて笑みが零れる。  二人は縁側に隣あって座っていた。脇には瞳が出してくれたお茶とお茶菓子がある。 「それより、菊池さんのほうこそ大丈夫なのか? 修理が明日にならないと来れないっていう話だけど」 「……大丈夫です」  微妙に間が開いたのが気になった。 「あちらの人に連絡とかしたか? あ、もしかしてスマホなくしたとかか?」  使うだろうかと、高斗はスマホを差しだした。希望はふるふると首を振る。  もしかして。  高斗はひとつの仮説に辿り着く。  テロから逃げてきたと言っていた。もしかして、身を寄せる場所はないんじゃないのか? 「菊池さん、浅間に知り合いとかいるのか?」  眉間に皺を寄せながら尋ねる。  もしいないなら、このままここに……。 「はい。伯母夫婦と従兄弟たちが暮らしています」 「あ、そか。なるほどな」  高斗は肩すかしをくらった。何故がっかりしたような気持ちになるのかはわからなかったが。  まあ、わざわざ浅間研究都市を目指していたのならそうなるよな。 「じゃあ、伯母さんちに連絡とっといたほうがいいんじゃないか。遅くなると心配するだろ。それに……ご両親のことも」  しかし希望は一向にスマホを手に取ろうとはしなかった。  高斗は希望の顔を覗き込む。そしてぎょっとした。  希望の瞳が滲んでいる。 「菊池さ……」 「おーい、高斗。研究所の人が来たぞ-」 「あっ、い、今! 今行く」  慌てて高斗は立ち上がった。希望も一緒に来るつもりなのか立ち上がった。  外では見慣れた研究所の職員が待っていた。 「ご苦労様でした。では回収しますね」  車のバックドアから慣れた手つきで段ボールを取り出す。 「一応中確認してくださいね」 「了解です」  ぺりぺりとガムテープを開けている間、希望は興味深そうにそれを見ていた。 「何が入ってるんですか?」  こてんと首を傾げて尋ねてくる。高斗はにやりと笑った。 「希望の生き物だ」 「希望の?」  ガムテープが剥がし終わり、箱が開けられる。 「うわっ!?」  希望がびっくりしたように高斗の腕を掴んだ。  箱からはにょきにょきと伸び続ける小さな苗木が出てきたからだ。 「あー、枝何本か折れてますね。でも、これは不良品てことじゃないですね。成長速度が予想より速すぎたから、箱が狭くて折れちゃったんでしょうね」  職員が感心しながら苗木を検分する。 「やっぱりですか。車で運んでる途中でも、葉っぱが触れあうみたいなさわさわした音がしてたんですよ」  二言三言会話をして、職員はお辞儀をして去って行った。  それを見送ってから、希望はぱっと高斗の腕を放した。「す、すみません。びっくりして」と顔を真っ赤にしているのがかわいくて、高斗は声を立てて笑った。 「な、何笑ってるんですか!」  希望がぷんとむくれる。高斗は笑いながら「悪い悪い」と形ばかりの謝罪をした。 「あれ、びっくりするだろ。俺も受け取った時びっくりした」 「受け取った時はこんな小さかったんだぞ」と親指と人差し指でサイズを示すと、希望は目を丸くした。  奥多摩研究都市での研究成果だ。  砂漠化を止めるために成長の早い植物を開発しているのだ。 「そんで、こっちでは乾燥に強い植物を開発している」  各研究都市で別々の研究をし、その成果を共有し合う。その物流を担うのが、高斗の仕事だった。 「どこの都市も頑張ってるんですよね」  大宮のことを思い出したのか、希望の顔が曇り始める。高斗は軽く希望の頭を叩いた。 「ああ。成功も失敗も、全て人類を絶滅の危機から救うために役立ってるさ」 「そう、ですよね」  希望は自分に言い聞かせるように呟いた。 「今夜はたーんと食べてね!」  日も暮れた頃。希望は高斗と共に瞳に夕飯に招かれた。 「悪いな、あかり」 「高斗の為ならえんやこらーだよ」  あかりと呼ばれた少女は、瞳の妻だという。瞳が三十であかりが十八というから、一回り離れた夫婦だ。  瞳の家の縁側でお茶をごちそうになっていた時この少女が現れた。やたら高斗と親しげな様子にもやもやしたが、「こいつ、瞳の奥さん」と紹介されて何故かすっきりとした。  あかりはこちらにも笑顔を見せた。 「希望ちゃんも遠慮せずどんどん食べてね」 「ありがとうございます」  あかりは研究施設で働いている。有能な研究員だそうだ。植物の遺伝子操作やゲノム解析を専門にしている。  瞳がお盆を運びながら妻に声を掛けた。 「あんまり無理すんなよ」 「だいじょーぶ。今日はつわり来てないんだよね」 「ならいいけどな」  仲が良さそうに動き回る二人を眺めながら、希望は「いいなあ」と思わずぽつりと呟いた。 「菊池さん?」  高斗が心配そうにこちらを見てくる。  彼に心配をかけたくない。  何故かそう思って、希望は無理に笑いを作って返した。  高斗は「さっきも言ったけど、無理しなくていいからな」とぽんと頭を叩くと「手伝うぞ」と二人のもとへ歩いていった。  取り残された希望はぽつんと座布団の上に座っていた。  手伝ったほうがいいのかな? でも、勝手がわからないあたしじゃかえって邪魔になりそうだし。  高斗はこの家の勝手を知っている感じだった。よく遊びに来るのかも知れない。  希望がどうしようかと悩んでいると、膝に何かが触れた。  くすぐったい、そう思って目を向けると、そこには十センチくらいの小さな獣がこちらをきょとんと見ていた。 「わっ」  希望が小さく声を上げる。 「どうした、菊池さん」  高斗が皿を持ちながらこちらにやってくる。希望はそっとその小さな獣に触れた。 「……かわいい。ネズミかな?」  獣は人間を怖がらないようだ。頭を撫でてやると「ぴー」と鳴き声を上げた。 「あっ。エゾナキウサギだね!」  あかりがぴょこんと横から顔を出した。 「ウサギ?」  ウサギと言えば長い耳が特徴だが、このウサギは小さな耳が頭の上についているだけだ。が、尻尾もちょこんとついているだけで、確かにネズミのようでもなかった。 「最近このあたりによく出没するんですよ。昔は北海道にしかいなかったそうですが」  瞳の説明に希望は頷いた。 「ああ、だから蝦夷」 「昔は絶滅危惧種だったようです。多分保護研究の目的で持ち込まれたのが繁殖したんでしょうな」 「ぴきー」  エゾナキウサギは一声鳴くと、希望の手の中からするりと抜け出した。 「……行っちゃった」  希望は残念な気持ちで三人の顔を見て微笑んだ。 「また来てくれるよー。三日にいっぺんくらいは来るから」  あかりが笑う。高斗が希望の横に腰を下ろしながら苦笑した。 「菊池さんは明日には浅間に行くんだからな」  希望は思わず俯いた。  行きたくない。  浅間には、本当は行きたくないのだ。  父の姉の家族が浅間研究都市には住んでいる。  実は希望の家族は以前から浅間に来ないかと誘われていたのだ。  だが、両親は頑として頷かなかった。浅間の研究に協力することはできない。大宮での研究を放り出すわけにはいかないと。  それならば、希望だけでも、との誘いもあったらしい。が、これが希望には不可解だ。  何故家族と引き離してでも希望が欲しかったのか。  希望は研究者ではない。高校でもスポーツを頑張ってきた。将来は大宮政庁に入って、街の人たちに動物たちから身を守る護身術を教える仕事に就きたいと思っていた。  では、希望のことを気に入っていたのか。その答えは明らかにノーだ。  何度か大宮にやってきたことのある伯母夫婦は、希望を見下すような態度をとっていた。最初は両親の研究が気に入らないのだろうと思っていた。そういった視線には慣れていたから。  が、希望が十歳くらいのある日、一緒に外食に行った時のことだ。両親はお気に入りの中華料理屋に二人を連れて行った。店内に入ると、食欲を刺激する美味しそうな匂いがした。中を見回すと回転するテーブルに、色とりどりの料理が盛られている。希望はわくわくとした気持ちで伯母を見上げた。  伯母は冷たい視線でこちらを見下ろしていた。そして、ふいと視線を逸らすと、そのまま店外に出て行こうとする。 「お義姉さん? どこ行くんです」  母がそう声を掛けると、伯母は母には答えず父に向かってこう言った。 「あんた、あたしたちにこの子と同じ皿のモノを食べろって言うの?」  それだけ言うと、伯母は伯父と一緒に出て行った。  母はおろおろしていた。母がおろおろしているので、希望もどうしたらいいのかわからず父を見上げた。 「ーー食べようか」  父は一言そう言うと、こちらに笑いかけた。  希望はこくんと頷いた。  席に着き、料理が運ばれてくる。  あんなに美味しそうだったのに。  料理は何の味も感じられなかった。 「えーっと、菊池さん」  遠慮がちな高斗の声で希望は我に返った。他の二人も心配そうにこちらを見ている。 「ごめんなさい! ちょっとぼーっとしちゃって!」  希望は高斗から料理に視線を移した。 「わあ! 美味しそう」  腕を上げてぱんと手を叩く。 「ちょっと待て、菊池さん」  困ったような高斗の声に、希望は腕を下ろした。 「もしかして、なんだけど。菊池さん、浅間に行きたくないんじゃないか?」  希望は口を引き結んだ。  行きたくない。  が、行かなくてどうするのだ。他に行くところなどないと言うのに。  行きたくないと言ってしまったら困るのは高斗だ。希望を目的地まで送り届けなければならないのだから。  浅間に着いたらできるだけ早く住む場所と働き口をみつけよう。大学は中退になってしまったけどそんなことを言っている場合ではない。そして、伯母夫婦にはできるだけ近づかないようにすればいい。 「あの、さ。菊池さん。もし菊池さんが良かったら」  そのまま高斗は口を何回か空回りさせた。  あかりが希望と高斗の顔を順番に眺めてから、ぱんと手を打った。 「あ、そうなのねー! 良かったら希望ちゃんここに住まない?」 「えっ」  驚いて希望はあかりの顔を見る。 「そうだな、それがいい。そうとなれば話は早い。希望、お前も今日から俺たちの家族な!」 「はい?」  瞳に突然呼び捨てタメ口で話しかけられ、希望は混乱する。 「で、でも、それはかなりご迷惑というやつなのでは!」  あまりに早い展開に希望が目を回していると、高斗が身を寄せてきて、耳打ちした。 「ここは身寄りのない人間が集まって暮らしてる所なんだ。瞳の両親が建てた孤児院みたいな場所だ」 「こ、孤児院て言っても、あたしもう二十歳……」  高斗は苦笑した。 「みたいな、って言ったろ。俺も五歳で両親を亡くして以来、ずっとここに住んでる」  高斗は「まあ俺は仕事が仕事だから家にいることはあんまりないけどな」と付け足した。 「じゃ、じゃあ」  そんな都合のよいことがあっていいのだろうか。  あかりと瞳が片手でハイタッチをした。 「じゃあ決まりね! 希望ちゃん今日からよろしくー」  希望は頭を下げた。 「は、はい。こちらこそよろしくお願いしま……」 「ノーノーノー」  あかりはちっちっちと指を振った。 「希望ちゃんは家族! お互いタメ口でいこうね」 「は、はい! よろしくお願いします!」  そう敬語を使ってしまい、三人に笑われた。 「ふっ、ふ……っ」  夜中、トイレに起きた高斗は希望の部屋から聞こえてきた息づかいに足を止めた。  ドアを軽くノックする。 「希望? まだ起きてるのか」  今は深夜二時だ。十くらいある部屋のうち、一番母屋に近い部屋を希望は使うことになった。高斗の部屋は一番遠い場所だが、トイレは母屋近くにあるのだ。用を足し、自分の部屋に戻ろうとしたとき、先程は聞こえなかった声が聞こえた。 「わっ」  中から小さな悲鳴が上がった。しばらくしてからドアがかちゃりと開いた。中から寝間着代わりのジャージを着た希望が顔を出した。 「ごめんなさ……ごめんね。起こしちゃった?」  希望は眉を下げる。 「いや。あんなに離れてて聞こえるわけないだろ。トイレに起きてきた」 「そっか。あたしももう寝るね」  希望はふっと笑うと後ろを向いた。その顔が見えなくなるまでの一瞬を高斗は見逃さなかった。 「泣いてたのか?」  目が真っ赤だった。  希望はもう一度こちらを振り向いて眉を下げた。 「寝てたんだけど。熊鷹が襲ってきた時の夢見て目が覚めちゃって。今、訓練始めてた」 「いや、訓練て」  高斗はため息をついた。多分熊鷹から両親を守れなかったことを気に病んでいるのだろう。だからと言って、こんな夜中に訓練など始めなくても。  今日はゆっくり休んで欲しい。 「あんまり無理するなよ。体壊したら元も子もないぞ」  軽く頭を叩く。希望は叩かれた場所に手をやってから、にこりと微笑んだ。 「うん。もうほんとに寝るからね」  おやすみ、と呟いてドアが閉じられた。  高斗はしばらく閉じられたドアの前で佇んだ。  ちゃんと寝られるのだろうか。  しばらくそのまま立っていたが、夜中に女の部屋の前に立ってるなんてこれじゃ変態だと思い、自分の部屋に帰ろうとする。その時。 「ふっ、うっ」 「希望?」  啜り泣くような声が聞こえ、高斗は思わず声を掛けた。びくりとしたように啜り泣きが止まる。 「た、高斗。まだいたの……?」  希望が目元をこすりながら出てきた。 「悪い。気になって」  頭をかき視線を逸らしながら告げると、希望は「ごめん! 今度こそ寝るっ!」と宣言した。 「ちょ、待て」  高斗は希望の腕をとった。 「寝なくていい。ごめん」  高斗は頭を下げた。  きっと、体を動かすことで気を紛らわしていたのだ。 「お前がしたいようにすればいい。ごめん」  再び謝罪を口にすると希望は首を傾げた。 「なんで高斗が謝るの?」 「なんでって……」  何故だろう。寝ることを強要したからか? いや、別に強要してはいない。ただ、自分は希望に無理をして欲しくなかっただけで。 「……俺の気持ちを押しつけたから、か?」 「なんで疑問形なの」  希望はぷっと吹き出した。そしてじゃあ、と言ってドアが閉じられようとする。  そのドアを、気づいたら押さえていた。 「た……」 「俺も入っていいか?」  希望の目が丸く見開かれた。高斗は焦った。 「いや、その! なんかトレーニングで俺も手伝えることないかって思ってだな!」 「しーっ」  希望が口の前で人差し指を立てた。 「瞳くんたちが起きちゃうよ。って、あたしが言うなって感じだけど」  高斗は口を噤んだ。希望は少し考えるような様子をしたあと、高斗を手招きした。 「トレーニングはうるさくなると困るからやめとくね。これからお世話になるんだし、あたしあなたたちのこと知りたいから、少しお話しようか?」 「そうだな」  高斗は部屋の中に入っていく。部屋の真ん中にある座布団に隣り合って腰をおろした。 「えーと、まず俺はさっきも言ったけど、各研究都市の間の研究成果の運搬とかを職業にしてる」  希望は興味深そうに聞き入った。  瞳とあかりは研究職だ。瞳は特に遺伝子情報の研究をしている。これまでにあまたの遺伝子組み換え生物を世に出している。組み換え生物に詳しい日本人十本の指に入ると言われている。 「遺伝子組み換え技術には色々批判も危険性もあるから、けっこう攻撃されることも多かったそうだ」 「あー、わかる……」  自身も研究者を親に持つ希望は寂しそうに頷いた。  どこの研究都市でもそうだ。自分たちホモ・サピエンスが生き残る為にはある意味ブラックな研究にも手を染めなければならないこともある。 「瞳も人権団体の一部の過激派の人間に襲撃されたことがある」  人権団体の言い分もわかる。自分だって希望の両親の研究に嫌悪感を示したではないか。 「そこまでして生き残らないといけないのかという意見もある。二百年前には『地球に優しい』とかのフレーズが流行ったらしいが、地球には関係ない。ホモ・サピエンスが絶滅しても地球は困らない。『地球に優しい』は『ホモ・サピエンスが生きやすい地球』に『優しい』ってことだ」  高斗自身わからないのだ。  緩やかに滅びていくのに身を任せてもいいのではないかという気持ちもある。  こんな絶滅の危機が迫っていても人間は戦いを繰り返す。今日本はどこの国とも戦争をしていないが、世界では今も戦争が繰り返されている。  希望は黙って高斗の話を聞いていたが、こちらを見上げて困ったように笑った。 「それでもいいんじゃないかな。生き物って結局は種の繁栄を目指してるものなんじゃないかな。あたしたちが子孫を残したいって考えて、そのためにもがくのは、きっと自然なことだよ」  高斗は隣に座る希望の頭をそっと撫でた。 「まあ、そうだな……」  ふわあと希望があくびをした。掛け時計を見るともう三時だ。一時間も二人で話をしていたらしい。 「お?」  突然、希望は電池が切れたように前につんのめった。咄嗟に手を伸ばして支える。 「のぞ……」  腕の中の顔を覗き込むと、既に安らかな寝息を立てていた。 「そりゃ、疲れてるよな」  高斗はゆっくりと希望の茶色い頭を撫でた。髪がふわふわとして柔らかい。  ずっと撫でていたい気持ちがわいてきて、高斗はぱっと手を離した。 「何、思ってんだ、俺」  希望をベッドに運ぼうと抱き上げる。その軽さに何度でも驚いてしまう。  ベッドに横たえたあと、名残惜しくてもう一度髪に触れる。  やばいな。  髪から頬に指を移しながら高斗は思った。     *** 「あかりちゃん、これはここでいい?」 「うん、ありがとー」  この家にやって来てから四ヶ月ほど。季節は夏になっていた。  希望は洗濯物をタンスにしまうと、縁側に座るあかりの隣に腰を下ろした。  あかりは今日から産休に入った。あと一月半ほどで子供が生まれる。  希望はお茶をすすった。 「ごめんねー。あたしまだ仕事見つけられなくって」  希望はしょんぼりと肩を落とす。あかりは大きくなったお腹を撫でながらほがらかに笑った。 「んーん。丁度あたしつわりが大変だったから、希望ちゃんに家のことやってもらえて助かっちゃった。あたしこそごめんね。希望ちゃんがうちのことやってるから就職活動が進まなかったんだよね」  この家は孤児院のようなものだということだが、今現在住んでいるのは瞳、あかり、高斗、そして希望だけだった。二年ほど前までは他に四人ほど住んでいたらしいが、皆独立してここを出て行った。 「高斗はねー、車が自宅みたいなもんじゃん? だから家借りるよりここにいればって瞳くんが言ったんだよねー」  あかりの言うとおり、高斗は家にいないことが多い。日帰りできない場所まで行くことも多いし、帰ってきても深夜に顔を見て終わりのことがある。  でも。 「あ、帰ってきたんじゃない?」  あかりに言われなくてもわかる。高斗の車の音がしたから。  希望は玄関に小走りに走って行く。 「お帰りなさい」  こうやって高斗を迎える瞬間が、希望はとても好きだった。 「ただいま、希望」  高斗が笑いかける。そこまではいつもと同じだった。  が、今日は。  希望は目を見開いた。高斗の背に隠れるように人影が見えたから。 「高斗。そちらは……?」  希望が小さな声で尋ねると、高斗は後ろを振り向いた。 「ほら、真紀。今日からお前の家族だぞ」  高斗の背中からおそるおそるといった体で小さな細い体が現れた。年は十四、五歳か。背中の中程くらいまである髪をひとつに縛っている。  その小柄な少女と目があった。希望はぎくりと体を強張らせた。 「はじめまして。中本真紀です」  ちょこんと頭を下げられたので、慌てて希望も頭を下げた。  が、なかなか顔を上げられない。  睨まれた。  今、目があった瞬間。  睨まれたのだ。 「真紀ちゃん、よろしくー」  あかりは持ち前の親しみやすさですぐに真紀に打ち解けた。  真紀はつくば研究都市の近くの砂漠に置き去りにされていたという。  この風習はここ数十年くらいでできたものらしい。  貧困で育てられなくなった子供を街の近くの砂漠に置き去りにする。置き去りが許されるのは子供が十を過ぎてからだ。それ以前は保護責任者遺棄で罰せられる。  子供が砂漠でのたれ死ぬか、それとも街に辿り着き生き延びられるか。それは運を天に任せるしかないのだ。  真紀は運よく高斗に拾われた。 「よろしく、あかりちゃん」  はにかみながら挨拶をする真紀は庇護欲を誘う感じだった。こんなかわいい子を捨てなければならなかったなんて、両親も辛いことだっただろうと希望は思う。思うのだが。 「よ、よろしくね」  希望はどもりながら笑顔を作る。先程睨まれたのが胸に渦を巻いている。すると、真紀はにっこりと笑った。 「よろしく、希望ちゃん」  あれ? さっきの見間違いかな。  真紀の笑顔に裏は見えなかった。  もしかして、緊張してただけかな。  希望はほっと胸をなで下ろした。 「じゃあ、真紀、行くぞ」  高斗が真紀の肩をぽんと叩いて外に促した。 「えっ。どこに?」  希望は声を上げた。  今帰ってきたばっかりなのに。  会えなかった二日間、話したいことがいっぱいたまったのに。  目に見えて萎れてしまっていたのかもしれない。高斗は困ったように笑うと、希望の頭をくしゃくしゃと撫でた。 「真紀が交配技術に興味があるらしいんだ。丁度研究助手を探してた施設がつくばにあったから、今から行ってくる。三日くらいで戻ってくるから」  そう言われてもなおもしゃんぼりした気分は治らない。本当は心配をかけたくないのだが、希望が無理をすると何故か高斗にはばれてしまう。そしてかえって心配をかけてしまうのだ。だから希望は高斗の前では素直になることにした。  高斗はしばらく無言で希望を見つめていた。 「真紀。先行ってろ」  そう言われると、真紀ははっとしたように顔を上げ、にこりと笑って「じゃあ車で待ってるよ」と駆けていった。  真紀が庭に出たのを確認すると、高斗は「はー」と盛大なため息をついた。 「ど、どうしたの、高斗」  希望は首を傾げる。高斗は希望の目をみつめた。 「行きたくなくなるから、やめて欲しい」 「え……」  希望は動揺する。  どうしよう。あたし、高斗の迷惑になってる?  瞳が潤み始めると、高斗は「そうじゃなくってだな」と頭をかいた。 「そんな顔されると、俺が希望と離れたくなくなるから困るって言ってんだよ」 「え」  希望は一瞬で顔が熱くなった。高斗はそれだけ言うと、後ろを振り向く。「行ってくる」と言った耳が赤い。 「い、いってらっしゃい……」  顔を赤くしたまま高斗を見送っていると。  車の中の目が、こちらを睨んでいた。  なんで?  希望は高斗と真紀の二人を目で追う。  真紀は高斗の腕をとって楽しそうに話しかけた。  そして真紀はこちらを再びちらっと見た。  そのまま車は走り出して行った。    *** 「高斗、そろそろ帰ってくるかなあ」  希望は縁側でごろりと横になっていた。  八月もお盆を過ぎると秋の気配が漂い始める。  今、家の中の家事を全部片付けたところだ。一休みしたら夕飯の支度に取りかかる。  希望はポケットから一枚の紙を取り出した。求人情報が掲載されている。 「あたしも早く仕事みつけなきゃ」  まなうらに真紀の顔が浮かぶ。  あんな小さな子だってもう仕事をみつけられそうなのに。  負けてられないぞ、そう拳を握りしめる。 「あかりちゃんが出産したら、あたしも仕事探しに本腰入れよ」  求人に目を通そうとするが、眠気が襲ってきた。ひとねむりしよう。  希望は目を閉じた。  しばらくして、希望はくすぐったくて目が覚めた。  多分エゾナキウサギだろうなあ。  そう思って目を開ける。  案の定、横向きになった顔の頬の側には小さな毛皮があった。  あかりの言ったとおり、エゾナキウサギはちょくちょく希望のもとを訪れてくれた。時には友達と一緒に。時には家族と一緒に。 「ふふっ。くすぐったい」  呟くと、エゾナキウサギはぱっと庭に飛んでいった。 「あー。行っちゃった」  寝転びながらぼんやりと獣の後ろ姿を追っていると、それはすぐ戻ってきた。口に何かを咥えている。  希望の顔の前でちょこんと立ち止まり、口から青い花を落とした。 「矢車菊?」  よく見かける青い花だ。 「かわいいね。あたしにくれるの?」  よしよしと頭を撫でる。エゾナキウサギは「ぴきー」と鳴いた。 「なんてことになってんだ、お前」 「うわっ!?」  突然聞こえてきた声に驚いて、頭を上に向ける。上からは高斗が見下ろしていた。 「びっくりした! 帰ってきてたの?」  希望はよいしょと起き上がりながら「お帰りなさい」と言った。  そんな希望の頬にすっと高斗の手が伸びてくる。びくりと希望は目を瞑った。 「いや、悪い。そうじゃなくて、ていうかそうってなんだよ」  何やら高斗はごちゃごちゃ言ったあと、今度は希望のおでこに指を伸ばしてきた。 「ほら、これ。すげえことになってるぞ。お前の体のまわり、この花だらけ」  高斗が目の前に差しだしたのは、先程の矢車菊だった。  自分の体を見下ろしてみると、確かに至る所に青い花が散っていた。 「エゾナキウサギのプレゼントだよ」  両腕を広げて希望はおどけてみせる。 「随分と盛大にくれたもんだな」  苦笑しながら高斗が希望の体についた花をとってくれた。そうして、あらかた取り終わってから、髪を整えるように撫でた。 「真紀ちゃんは?」  撫でられているのがくすぐったくて、希望は話を変えてみた。高斗は希望の頭から手を離すと、思い出したように言った。 「外で電話してる。もしかすると、遠縁の身寄りがみつかるかもしれない」 「そうなんだ!」  良かった。  それは、真紀にとってなのか、自分にとってなのか。  自分にとって良かったと思っているのを認められたら楽になれるかもしれない。そう思ったが、まだ認めたくはなかった。 「もしもし。真紀です」  家から少し離れたところで、真紀はスマホに話しかけていた。 「……はい。間違いありません」  ちょろりとエゾナキウサギが足下にまとわりつく。 「見つけました。私の同胞ですから見間違うはずはありません」 「ぴー、ぴきー」  小さな声でエゾナキウサギが鳴いては、走り回る。 「彼女です。ネアンデルタール人は」  真紀の足下には、無数の青い花が散っていた。    
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